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★これは〈沖縄差別〉である
目取真 俊 著
ヤンバルの深き森と海より《増補新版》
2024年4月30日刊
四六判 上製 518頁
定価 3000円+税
ISBN978-4-87714-500-2 C0036
装丁:桂川 潤
●目次
●書評
●関連書
〈大国の武の論理に飲み込まれるとき、沖縄はいいように利用され、犠牲を強いられる。先島への自衛隊配備にしても、そこに見られるのは日本=ヤマトゥを守るために沖縄を利用する現代版「捨て石」の論理である。軍隊が守るのは領土ではあっても住民ではない。沖縄戦の教訓を思い出したい。〉(本文171頁より)
歴史修正や沖縄ヘイトで世論を煽りつつ、貴重な自然を平然と破壊、民意無視の有無を言わせぬやり方で辺野古新基地建設や自衛隊配備を強行し、琉球列島の軍事要塞化を推し進める日本政府。
これに対峙し、再び本土の〈捨て石〉にはされまいと抵抗する沖縄の人びとの姿を、森に分け入り海でカヌーを漕ぎながら最前線で記録。
2006年から2019年までの14年におよぶ論考を厳選した初版本(2020年刊)に、新基地建設阻止闘争の現場の詳細などを語ったインタビュー6篇と対談を増補した新版。
沖縄への差別と無関心を続ける「本土」の日本人=ヤマトゥンチューに送る、強靭な批評精神に貫かれた評論集。
〈著者略歴〉
目取真 俊(めどるま しゅん)
1960年、沖縄県今帰仁(なきじん)村生まれ。
琉球大学法文学部卒。
1983年「魚群記」で第11回琉球新報短編小説賞受賞。1986年「平和通りと名付けられた街を歩いて」で第12回新沖縄文学賞受賞。1997年「水滴」で第117回芥川賞受賞。2000年「魂込め」で第4回木山捷平文学賞、第26回川端康成文学賞受賞。2022年に第7回イ・ホチョル統一路文学賞(韓国)受賞。
著書:[小説]『魂魄の道』、『目取真俊短篇小説選集』全3巻〔第1巻『魚群記』、第2巻『赤い椰子の葉』、第3巻『面影と連れて』〕、『眼の奥の森』、『虹の鳥』、『平和通りと名付けられた街を歩いて』(以上、影書房)、『風音』(リトルモア)、『群蝶の木』、『魂込め』(以上、朝日新聞社)、『水滴』(文藝春秋)ほか。
[評論集]『沖縄「戦後」ゼロ年』(日本放送出版協会)、『沖縄/地を読む 時を見る』、『沖縄/草の声・根の意志』(以上、世織書房)ほか。
[共著]『沖縄と国家』(角川新書、辺見庸との共著)ほか。
ブログ:「海鳴りの島から」 http://blog.goo.ne.jp/awamori777
(本書刊行時点)
書 評
::::::::::::::::::::::::::: 《増補新版》への書評 :::::::::::::::::::::::::::
◆『はらっぱ』2024年9月号
評者:西尾慧吾 氏
::::::::::::::::::::::::::: 《初版》への書評 :::::::::::::::::::::::::::
◆『神奈川大学評論』第96号( 2020年11月)
評者:川端俊一 氏
◆『図書新聞』 2020年5月30日
評者:新城郁夫 氏
基地に反対する
――目取真俊の表現によってこそ、沖縄そのものが挑発され時代が突き動かされてきた
まずは、集まり群がること。何でもないことのように思われていたそのふるまいの意義を、集まることが困難に見舞われている今、痛感している。そして、この痛感のなか、目取真俊という一人の表現者が生み出す言動の強度を、あらためて感じている。
この二十数年間にわたる沖縄の闘いを振り返り今後を展望するとき、その光景のなかに目取真俊の姿がないことを想像することくらい困難なことはない。もし仮に、不在であったとしても、それゆえ却ってその存在が強く想起され、その言動が引用され呼び覚まされないではおかないのが目取真である。辺野古や高江といった場で展開される在沖米軍の危機的状況に常に対峙する表現者として目取真がいて、そしてまた、目取真の表現によってこそ、沖縄そのものが挑発され時代が突き動かされてきたと思えてくる。
たとえば、沖縄をめぐって何かしら思考や情動が新たに開示されえたと思えた場合でも、それが目取真の表現によって既に先取られていたと気づくことはしばしばである。また、私たちが沖縄をめぐって感受する錯綜した現在の危機が、既に目取真の小説あるいは批評において予め警告されていた近未来であったことに気づかされることも稀ではない。「今」沖縄で起きている事態とは何なのか。何と闘わなくてはならず、だれと連帯する必要があり、何とのなれ合いを拒む必要があるのか。常に自ら不在化していこうとする米軍という怪物が創りだす惨状を前に、私など闘うべき相手が分からなくなるのが常である。こうしたとき、目取真の言動が突きつけてくる「今」の痛みくらい得難い指針はない。
その目取真の思考と行動の軌跡を一望するまたとない契機を私たちに提供するのが、『ヤンバルの深き森と海より』(影書房)と名づけられたこの時評集である。必読の一冊と言える。「沖縄戦の記憶」(二〇〇六年五月)を劈頭に、末尾の「利益目的のお祭り騒ぎ 代替わりを問う、沖縄と天皇制」(二〇一九年五月)に至るまで、十四年に及ぶ時評の数々が集められている。普天間米軍基地の辺野古「移設」回帰という民主党鳩山内閣の悪夢のような裏切りを挟むように展開する、地獄のような自公連立の第一次・第二次安倍政権の暴走にさらされてきた沖縄をめぐる困難が、ここに深く掴みとられている。身を切られる思いがしてすいすいと読み通すことは困難だが、さりとて目を背けることもできない。ここから逃れるすべはないと感じる。ここから逃げるとしたら、あとは、沖縄をめぐる現実を否認し、沖縄そのものを否認する以外ない。
本書に収められている時評は一二〇以上に及び、発表媒体も多岐にわたっており、沖縄地元紙である『沖縄タイムス』や『琉球新報』あるいは『熊本日日新聞』や『東京新聞』等の諸新聞、『すばる』や『三田文學』をはじめとする文芸誌、『社会評論』『部落解放』『世界へ未来へ 9条連ニュース』『けーし風』といった幾多の運動誌を確認できる。その連なりが示すのは、目取真が闘いのさなか書き続けてきたという一事である。その営みは、想像を絶するほど厳しいはずである。たとえば、本書のなかの次のような言葉が開くのは、書く行為がみずからを痛めつけることを知悉しながら、なお書くという表現の臨界である。「沖縄に住む者は、高江・辺野古・普天間など各地で行なわれている抗議行動に加え、次々と発生する米軍犯罪への抗議も行わなければならない。体がいくつあっても足りず、膨大な時間を費やさなければならない。基地がなければ生産的な活動にあてられた時間が、徒らに費やされていくこと、それもまた大きな基地被害である。小説を書くどころか本さえ読めない日々が、この先、どれだけ続くか分からない。この怒りをどこへ持っていこうか」(「高江のオスプレイパッド建設を許してはならない」、本書二三七頁)。
本書にはこうした怒りが各所に直截に書きつけられており、たじろがざるをえなくなる。なぜ、たじろがざるをえないのか。それは、今の沖縄にあって本を読むという何気ない行為が、本を読む時間を奪われている誰かの日常との関係のなか生起していることを突きつけられるからであり、私(たち)の日常が辺野古新基地建設をめぐる闘いの現場と繋ぎとめられている事実が露わとされるからである。
この本においては、沖縄における闘いが、時間との闘いであることが身体化されていく。そして、沖縄の各所で闘う者たちの躰が、それぞれが生きねばならない時間の落差においてずたずたに引き裂かれる幾多の「今」が切開されていく。辺野古の浜や高江の森の米軍ゲート前に座り込んで警察隊と抗争し、カヌーで漕ぎ出し海上保安庁の暴力に対峙することが闘いならば、小説を書くことも本を読むことも本来的に闘いであり、その闘いの時間はぎりぎりの駆け引きにおいて一つの身体のなかで生み出されるものであるに違いない。これら一つ一つの身体が寄りあうことによって生成するのが沖縄の闘いであるが、この闘いを伝える目取真の言葉に湛えられているのは、辺野古新基地建設あるいは高江ヘリパット基地建設が、沖縄を生きる者に強いてくる暴力の波状的な攻撃性である。
この力に対抗するとき一人一人の心身で生成されてくるもの、それを目取真その人の小説のなかの言葉を借りて言うとするなら、「毒」(『希望』)という以外ないと思われる。その「毒」の廻りにおいて、心身はひどく疲れ、もがき、怒りに浸される。沖縄をめぐる幾多の政策論や状況論は、苦しむこの心身を忘れることによってしか自らを差し出しはしないが、目取真の言葉が開くのはこの次元である。訳のわからぬ疲れのその深い底からつきあがってくる怒りに苛まれる心身がここにはある。そして、心身をめぐるこの「毒」が目取真という発話体を使って何度も語らしめるのが、次のような言葉である。「沖縄に基地を押し付けて平然としているヤマトゥンチュー(日本人)の差別と無関心が、沖縄の苦しみの根源にある」(「沖縄を「捨て石」にする構造」、四〇四頁)。こうした言葉は沖縄内外において頻繁に提示されてきたし政治的右派からさえ叫ばれてもいるが、この言葉の射程から、たとえば私が逃れうるかといえばそれは困難である。なぜなら、「ヤマトゥンチュー」として自認することはないにもかかわらずあるいは自認しないからこそ、ここで目取真が言う「差別と無関心」が構成する集合体から自分が外れていると言明することは無理と感じるからである。沖縄に生まれ育ち沖縄を生きていれば沖縄をめぐる「差別と無関心」の共同体から逃れうるかという問いが自分に折り返されないということはない。ありえない。
ただし、この問いの折り返しに誰にもまして躓き、その躓きのなかから非暴力抵抗の闘いを練り直していくのが、目取真その人であることも確かである。在沖米軍基地「移設」=本土引き取りの言動を明確に批判する目取真の姿勢を踏まえれば、日本人vs.沖縄人という見慣れた対抗図式のなかに基地問題を回収してすむのであれば、むしろ楽だろう。だが、目取真はそこから問いを反転させ続ける。そして私は、この反転にこそ本書の核心を見る。「この原稿を書いているいま、沖縄は元海兵隊員の米軍属による事件で騒然となっている。強姦殺人、死体遺棄の容疑がかけられているが、このような犯罪が起こるのを防ぐために基地に反対してきた。なんともやりきれない思いだ」(「米海兵隊に拘束されて」、三五四頁)。このとき目取真は、日米地位協定に伴う刑事特措法違反容疑で米兵そして海上保安庁職員に逮捕され基地内に長時間拘束された直後の「いま」のなかにいる(この逮捕拘束の不当性を問う裁判で目取真は勝訴し国家賠償判決を引き出している)。そして沖縄の闘いを、言葉を絶する暴力において殺された被害者のいのちの側から問い直し、基地に反対するという始まりの地平に自らを引き戻している。「23年前の事件(引用者注‐米兵3人による女子小学生暴行事件)の被害者やその家族は、いまの沖縄、日本の現状をどう見ているだろうか。いつも思うのはそのことだ」(「日本人はいつまで沖縄に基地を押し付けていくのか」、四七二頁)。私たちの社会が追認し黙認する暴力装置による被害者のまなざしが目取真を貫き、目取真を通して私(たち)を貫いている。このまなざしはまた、本書のなかで目取真自身がその地に身を置く、南洋諸島を含む沖縄戦の諸地域の被害者のそれに重なり、韓国光州事件のそして済州島四・三事件の被害者のそれに重なり、北朝鮮の市民のそれと重なり、そして沖縄内部で周縁化され米軍・自衛隊展開が集約される沖縄北部や宮古・八重山諸島に生きる人びとのそれに重なり、被害性と加害性の重層的な折り込みとなって現在を問い返す。そして、この無数の人びとのまなざしを受けとめるなかで、本書を通じて目取真が立ちかえるのが、基地に反対するという原則なのである。この原則への帰還を通してこそ、米軍・自衛隊をはじめとする軍事主義の暴力装置が可視化され、その暴力の構造が抵抗する身体の働きによって縁どられていくのだ。この目取真の言動により、暴力が限界づけられていく点は極めて重要である。私たちの闘うべき相手が次第に見えてくる。
そのうえで、この構造化された暴力への抗いについて、目取真は一つのことをくり返し言明する。「海でも陸でも、現場に人が集まり、力を合わせて弾圧をはねのけることで、逮捕者を出さずに新基地建設を阻止することができる」(「沖縄・辺野古で続く陸と海でのたたかい」、二八三頁)。私たちはここに帰るしかない。目取真の呼びかけが届いている以上、集まることを再び三たびと始め直さなければならない。本書をひとまず閉じて思っているのはそのことである。(沖縄/日本文学)
◆『ふぇみん』 2020年5月25日
◆『沖縄タイムス』 2020年3月14日
評者:仲村渠 政彦氏
◆『週刊 読書人』 2020年4月3日
評者:尾西 康充氏
◆『日刊ゲンダイ』 2020年3月31日
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/271150
◆『東京新聞』 2020年3月22日
◆『AERA』 2020年2月24日号より
https://dot.asahi.com/aera/2020022100025.html?page=2
◆関連書◆
『魂魄の道』 目取真俊 著
『虹の鳥』 目取真俊 著
『眼の奥の森』 目取真俊 著
『目取真俊短篇小説選集1 魚群記』 目取真俊 著
『目取真俊短篇小説選集2 赤い椰子の葉』 目取真俊 著
『目取真俊短篇小説選集3 面影と連れて』 目取真俊 著
『目取真俊の世界(オキナワ)――歴史・記憶・物語』 スーザン・ブーテレイ 著
『土地規制法で沖縄はどうなる?―利用される「中国脅威論」、軽視される人権』 馬奈木厳太郎 編著
『山羊の肺 沖縄 一九六八-二〇〇五年【復刻版】』 平敷兼七 著
『ぼくたち、ここにいるよ―高江の森の小さないのち』 アキノ隊員 写真・文
【小学中学年以上~大人まで】
内海愛子・高橋哲哉・徐京植 編著 『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』
『日本型ヘイトスピーチとは何か――社会を破壊するレイシズムの登場』 梁 英聖(リャン・ヨンソン) 著
『沖縄おんな紀行――光と影』 もろさわようこ 著
『平和通りと名付けられた街を歩いて 目取真俊初期短篇集』 目取真俊 著 【品切】