この本をツイート 
〔新装版〕★画像クリックで拡大


〔旧版〕
せめぎあう記憶/ひびきあう言葉――魂を揺さぶる連作長篇

目取真 俊
眼の奥の森 〔新装版〕


2017年5月刊(新装版)
(旧版:2009年5月刊)
四六判上製 221頁
定価 1800円+税
ISBN978-4-87714-472-2 C0093


●目次
●書評
●関連書




軍に占領された沖縄の小さな島で、事件は起こった。
少年は独り復讐に立ち上がる――
悲しみ・憎悪・羞恥・罪悪感……
戦争で刻まれた記憶が、60年の時を超えて交錯し、せめぎあい、響きあう。
魂を揺さぶる連作小説。


アメリカ・カナダで英訳出版され、韓国でも翻訳版が進行中。世界から注目を集める著者の代表作。(2017年4月現在)

〈著者略歴〉

目取真 俊(めどるま しゅん)

1960年 沖縄県今帰仁(なきじん)村生まれ。
琉球大学法文学部卒。
1983年「魚群記」で第11回琉球新報短編小説賞受賞。
1986年「平和通りと名付けられた街を歩いて」で第12回新沖縄文学賞受賞。
1997年「水滴」で第117回芥川賞受賞。
2000年「魂込め(まぶいぐみ)」で第4回木山捷平文学賞、第26回川端康成文学賞受賞。
【著書】(小説):『目取真俊短篇小説選集 全3巻』『眼の奥の森』『虹の鳥』『平和通りと名付けられた街を歩いて』(以上、影書房)、『風音』(リトルモア)、『群蝶の木』『魂込め』(以上、朝日新聞社)、『水滴』(文藝春秋)ほか。
小説の他に時事評論集『沖縄「戦後」ゼロ年』(日本放送出版協会)、『沖縄 地を読む 時を見る』『沖縄/草の声・根の意志』(以上、世織書房)ほか。
新聞や雑誌にエッセイ・評論などを発表。
ブログ:「海鳴りの島から」 http://blog.goo.ne.jp/awamori777

(本書刊行時点)






◆『眼の奥の森目次


 (目次はありません)









書 評



◆『朝日新聞』 2014年6月22日書評欄 「ニュースの本棚」より


沖縄戦の記憶 北村毅さんが選ぶ本

http://book.asahi.com/reviews/column/2014062200001.html




  






◆『週刊金曜日』 2009年11月13日(No.775号)より

「記憶」受け継ぐ言葉が光を放つ

評者=本橋哲也(東京経済大学教員)



  








◆2009年12月21日 | 越川芳明さんのブログ「越川芳明のカフェ・ノマド」より
 http://blog.goo.ne.jp/nekonekoneko_1952/e/eeb0dddec7290c50fccfc0dff8784ef6
(初出=『小説トリッパー』2009年冬季号)

  森の洞窟(がま)に響け、ウチナーの声

   評者=越川芳明(明治大学/ボーダー文学・文化研究)

 米国東部の小さな大学で教えている若い日本人の友人が、目取真俊の短編を教材にしているという。興味をひかれて、どの作品をテクストにしているのか、と訊いてみた。「身体と文学」といったテーマの授業で、日米の文学やアニメや映画など数多くのテクストを扱うらしく、手塚治虫、塚本晋也、宮崎駿、押井守、村上春樹、クローネンバーグ、オクタビア・バトラー、J・G・バラードらの作品にまじって、目取真俊の「希望」という短い作品(英訳)がリストに挙げられていた。

 このリストはいろいろなことを考えさせてくれた。一つには、日本文学や沖縄文学といった文脈を取り払うだけでなく、文学やアニメといったジャンルの枠も取り払って、文学作品を脱コンテクスト化することで、目取真俊は意外な作品群と呼応しあうのだ、という新鮮な驚きを得たことだ。だが、その一方で、目取真俊の作品には、リストに挙がっている他の作品にはない切迫したアクチュアリティがあり、まるで接合を拒む膿(う)んだ生傷のように、リストのそこだけグサリと穴があいてしまっているような、違和感を覚えたのも確かなのだ。

 「希望」という小説は、もともと「朝日新聞」の夕刊(一九九九年)に掲載されたものであり、米兵による沖縄の女性の強姦事件に業を煮やして、アメリカ人の幼児を誘拐して殺してしまう犯人を語り手にした衝撃的な作品だ。語り手は、八万人の抗議集会を何の効果もあげない「茶番」でしかないと考え、「自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ」と、言いつのる。

 この小品に見られるようなたった一人の「復讐劇」は、目取真俊の文学の隠れたモチーフだ。たとえば、短編「平和通りと名付けられた街を歩いて」では、皇太子の訪沖に際して、沖縄県警が過剰に自己規制の包囲網を張るなか、一人の認知症の老女が県警の目をかいくぐって糞の付いた手で皇室の車のガラスを汚す。「軍鶏(タウチー)」のタカシ少年は小学五年生でありながら、地域のボスにたった一人で立ち向かう。さらに、前作『虹の鳥』では、暴力団によってクスリ漬けにされていたマユという若い女性が、逃避行の途中で米兵の子供を誘拐して殺す。

 『眼の奥の森』も、太平洋戦争時に、伊江島と思える離島を攻略した米軍の若い兵隊たちによって小夜子という若い女性が強姦され、それに対して、盛治(せいじ)という地元の男がたった一人で行なう復讐が主たるモチーフとなっている。

多彩な視点と語り
 『眼の奥の森』がこれまでの小説と大きく違う点は、まるで万華鏡を覗くかのような、語りの視点の多彩さだ。
 戦時中から現在までのスパンで、<戦争>という現実が、十個の語りのプリズムによって乱反射する。被害者側の視点もあれば、加害者側の視点もあり、過去の視点もあれば、現在の視点もある。

 だが、それはただの「薮の中」の手法といった、ある意味で気楽な、相対的な世界の提示と違う。
 なぜなら、目取真俊がある企図のもとに、こうした語りのプリズムを用いているからだ。
 全体の語りの視点と内容について簡略に触れておこう。なお、小説には章立てがないが、ここでは便宜的にナンバーをつけておく。

@ 国民学校四年生のフミと十七歳の盛治。三人称の語り。戦時中の離島。四名の米兵による小夜子の強姦事件。盛治による銛での米兵刺傷事件。
A 区長の嘉陽。二人称の語り。現代の沖縄。若い女性による戦争体験の聞き取り。
B 久子。三人称の語り。現在。戦争トラウマ。泣きわめき、走りさる女性の夢。六十年ぶりの沖縄行き。松田フミとの出会い。
C フミ。三人称の語り。現代の離島。戦争時の回想。発狂する小夜子。盲目になる盛治。
D 盛治。一人称の語り。ウチナー口による独白形式。現代の沖縄。戦争時の回想。米軍による取り調べ。日系人の通訳。
E 若い作家。一人称の語り。現代の沖縄。大学時代の友人Mからの依頼。銛の先を利用したペンダントをめぐるエピソード。
F 米兵。一人称の語り。戦時中の離島。集団で沖縄の女性を強姦する。仲間と海で泳いでいるうちに銛で刺される。
G 沖縄の中学の女子生徒。一人称の語り。現代の沖縄。クラスでの陰湿ないじめ。戦争体験を聞く授業。
H タミコ。一人称の語り。現代の沖縄。中学で戦争体験を語った後に声をかけてくる女子生徒たち。戦時中の回想と現在の生活。里子に出された姉(小夜子)の赤ん坊。父の怒り。姉の施設への訪問。
I 日系アメリカ人の通訳。一人称。現代。手紙形式。沖縄県による顕彰の辞退の理由。米軍による強姦事件の隠蔽。

 一般的に、小説の中で、立場の異なる登場人物たちが一人称で語り合い、同じ事件なのに、まったく正反対の「事実」が露呈するというのが<薮の中>の手法の特徴だとすれば、この小説で、根本的な「事実」をめぐって、視点によるぶつかり合いはない。小夜子の強姦事件をめぐって、その被害者や加害者による見え方の違いはあっても、事件そのものを否定するような人物は登場しない。小夜子の強姦という「事実」に関しては、冒頭の三人称の客観的な語りによって提示されてしまっているからだ。目取真俊の力点が「事実」の有無にないのは明らかだ。

 むしろ、この小説では沖縄内部の差異に目が向くような仕掛けがなされている。

 この小説は季刊誌『前夜』の連載がもとになっているが、採用されなかった掲載誌(第一回目)には、外部者や障害者への差別問題が書かれている。その他に、第二章の、かつて部落の区長であった「嘉陽」という老人を視点人物とした二人称の語りが注目に値する。

 「カセットテープを交換し小型レコーダーをテーブルに置いてスイッチを入れると、まだ大学を卒業して二年にしかならないという小柄な女は、お前を見やりかすかに笑みを浮かべたように感じたが、透明なプラスチックの窓の内側で回転するテープに視線を落としたお前は、二世の名前も女の名前も思い出せず、不安な気持ちになりかけていた」(39頁)

 一般的に、二人称の語りは視点人物と読者を一挙に結びつける効果を発揮する。とすれば、これは戦時中に、盛治の隠れ家(洞窟(がま))を米軍に密告した経験のある「悪辣な」区長の立場に読者を追いやる挑発的な試みだ。そこに沖縄人が被害者の立場に安住することを許さない作者の激しい姿勢が見られる。と同時に、この二人称の語りは、記憶の隠蔽や歪曲などの実例をしめし、沖縄で行なわれている戦争体験の安易な聞き取りを風刺するものでもある。

ダイアレクトと世界文学
 短編集『魂込め(まぶいぐみ)』に収録された短編「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」は、これまでに日本文学が達成した独白形式の傑作だったが、残念ながら標準語だった。だが、この小説の第五章は、ルビという方法で、終始沖縄のダイアレクト、ウチナー口で語られる。

 村上春樹が国民作家として、通常は小説など読まない読者層にも支持される理由は、その言語にある。どんなにひどい暴力的な殺人シーンを扱ったとしても、語る言葉が誰にでも分かる標準語であるかぎり、読者は軽く受け入れる。翻訳も容易であるので、海外で紹介されやすく、それによって、村上春樹を世界文学の担い手として持ち上げる批評家が出てくる。

 だが、世界文学は世界のへりから、いわゆる標準語に風穴をあけるようなダイアレクトとの創造的な格闘からしか生まれない。というのも、ダイアレクトは、音の豊かな響きによって微妙な感情を表出し、それによって均質化した日本語そのものを多様性へと導くからだ。結果的に、それはマイノリティの立場に立った多元的な思想を生み出す。

 ガルシア=マルケスのマコンド、フォークナーのヨクナパトーファ、大江健三郎の四国の森、中上建次の路地など、世界文学の先人のモデルを受け、目取真俊もヤンバルの森を想像上のトポスへと確立しつつある。

 だが、、重要なのは、沖縄の言葉をどれだけ小説の言語として創造できるかという点である。それによって、目取真俊は、世界の周縁のカリブ海で「クレオール語」で創作を行なうエドゥアール・グリッサンなどと一気につながる。今福龍太の『群島-世界論』にならって言えば、世界文学は、国籍に関係なく不定形の連なりをなすからだ。

 だから、目取真俊が沖縄から発信する文学は、ダイアレクトとしての沖縄語のハンディキャップを引き受けねばならない。ルビを多用した盛治のウチナー口の独白こそ、その一つの成果だ。

 「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ・・・、風(かじ)に乗(ぬ)てぃ、波に乗(ぬ)てぃ、流れ(ながり)て行きよる(いちゅぬ)我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な?」(103頁)

 これは戦後、六十年以上たった沖縄での独白であり、その中で盛治自身の言葉が日系の通訳の話す標準語や、父母や区長のウチナー口などとも激しく衝突し合い、その総体が彼の記憶となっている。それは、いわばさまざまな言語からなる森であり、読者はその森をかいくぐって盛治の内面に近づく。その凝縮された声が「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ」なのだ。

 この声は、後に妹のタミコが耳にする、精神病を病んだ小夜子がつぶやく声「聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ」(202頁)に鮮やかに対応して、読者に感動を与えないではおかない。

 目取真俊の「抵抗の文学」は、この連作小説に見られる森の洞窟(がま)に響くかのような語りの工夫によってさらなる進化を遂げただけでなく、世界文学の一員として確かな一歩をしるしたと言えるだろう。

(週刊朝日別冊『小説トリッパー』2009年冬季号、434―436頁に若干手をいれました)

 〔以上、越川芳明氏のブログ「越川芳明のカフェ・ノマド」 より〕











◆『読売新聞』 2009年7月21日
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090721bk04.htm


  何が戦争を起こすのか

   評者=井上荒野(作家)


 第二次大戦末期、米軍に占領された沖縄の小さな島。小夜子という少女が、米兵四人に乱暴される。小夜子に思いを寄せていた盛治が銛(もり)で米兵を刺して姿を消し、山狩りがはじまる。

 事件をめぐる様々な人たちを視点にして紡がれる連作集である。小夜子が襲われたとき一緒にいた年下の少女フミ。山狩りのとき米兵に協力的な態度をとったことで島民から疎んじられることになる区長。精神に異常を来した小夜子の面倒を見続けた妹のタミコ。

 銛で刺された兵士。彼がずっと持っていた銛の欠片(かけら)のペンダントのことを知らされる小説家。米軍所属の二世の通訳者。そして盛治。

 当時から現代までの時空を行き来しながら、物語は、戦争という黒々としたものが人間の運命をどのように苛(さいな)むかを描き出す。落ち込んだ穴から這(は)い出すために、あるいは穴の中で生きながらえるために、ある者はくるい、ある者は記憶を封印し、ある者は他者にも自分自身にも嘘(うそ)を吐き通す。

 さらに物語は、現代のある少女の視点を挟むことによって、私たちの心を深く抉(えぐ)る。この少女は中学校で苛(いじ)めに遭っている。その凄惨(せいさん)な描写を通して、悪いのは戦争なのか? という問いかけが私たちの心に浮かぶ。黒々としたものは戦争なのか? それは私たち人間の中にあるものではないのか? 戦争を起こすのは私たち人間にほかならないのだ、という自明の認識を、考えまいとしている私たちに力強く突きつける。

 米軍に捕らわれた盛治は山狩りのときの催涙ガスのせいで盲目となり戻ってくる。その盛治を辱めて嗤(わら)う島の男たちがいる。覚えていなければならないことを風化させるのは時ではなくて人の心なのだと、本書は、瑞々(みずみず)しい自然描写、やさしくて美しい沖縄の言葉の向こうから語りかける。戦争を知らないことはエクスキューズになりはしない。たくさんの人に読んでほしいと思った。




 






◆『北海道新聞』 2009年7月26日
http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20090726/2.html


  「個」を葬る戦争の狂気

   評者=与那原恵(ノンフィクションライター)


 私が死んでも、私の声は残り、あのときのことは伝えられていくのだろうか。それとも、私の記憶は私とともに消えてしまうのか。

 シマ言葉(沖縄の集落の言葉)でつぶやく老人。その静かな声は重く響く。

 沖縄戦末期。南部での激戦がこれから展開するという時期、すでに米軍の支配下にあった島が舞台だ。少女たちが白い砂浜で貝を採る昼間、事件は起きた。

 気さくに思えた米兵数人が少女のひとり小夜子をアダンの茂みに暴力的にひきずりこんだ。泣き叫ぶ声。やがて、裸でうずくまる小夜子の姿。

 圧倒的な力を誇示する米軍に集落の人びとはなすすべさえない。それからほどなくして小夜子の隣家の青年・盛治が、海の中で小夜子を暴行した米兵を銛(もり)で刺した。盛治は洞窟(どうくつ)に逃げるが、集落のまとめ役が明かしたその場所に米兵たちが現れ、彼はとらえられるのだ。

 その日から60年以上が過ぎようとしていた。消え去らない傷みと年月をさまざまなまなざしと語りで描きだしてゆく。

 事件後、集落の人びとに遠ざけられた小夜子と盛治。事件を目撃した少女。盛治の居場所を教えたまとめ役。暴行した米兵。米兵と島人のあいだに立った沖縄系米兵…。

 やがて、彼らの複雑な背景と葛藤(かっとう)が明らかになる。自己弁護をするわけでなく、誰を糾弾するというものではないが、戦争という狂気が人を集団のなかに埋没させ、個人の理性や判断、ひとりの「声」を失わせてゆくものであることを浮かびあがらせるのだ。けれどもそれは戦後も続き、さらには、現在でもあると作家は問いかけている。

 人は弱く、もろい。けれどもこの小説の救いはそれぞれの苦悩の痕跡が私たちのこれからを示すかすかな光となることだろう。おだやかな筆致ゆえに、胸に迫ってくる。

 あれから二度と会うことのなかった小夜子と盛治。過酷な歳月を生き、老いたふたりは今、遠く離れた場所で海の風を浴びている。我(わん)が声(くい)が、聞こえるか(ちかりんな)、小夜子……。聞こえるよ、セイジ。










◆『週刊読書人』 2009年8月14日

  言葉にならないものと言葉との間で語られる物語

   評者=小林広一(文芸評論家)


 ある強姦事件について描いてあるのだが、誰が悪いのか、ほんとうに、わからない。現在、もっとも憎むべきなのは、いったい誰か――。事件は戦争を背景として起きたことだから、戦争犯罪を追跡していくことで戦争を起こした悪人が誰か決して分からないことではない。そしてたとえ過去には憎んでいても事件から六十年以上もたっているのであれば、すべてを長い時間のせいにして忘却できないことではない。だが、その忘却の彼方の歴史書に載らない非歴史的な“闇”から、言葉にならない何ごとかが、聞こえてこないか。その言葉にならないものと、言葉との間で、かろうじて成立したのが、この小説である。

 事件は、太平洋戦争末期、沖縄に米軍が上陸したばかりで、まだ戦闘が続いていた頃に起きた。昨日までの憎むべき敵だった米兵に、日本兵は捕虜となって戦意をすでに喪失し、食糧を配給してくれるので住民もしだいに愛想がよくなってきた頃、米兵数人に少女が暴行強姦された。少女の隣家の知恵遅れの少年が、怒って復讐のために銛で米兵を傷つけ、森の洞窟に逃げたのだが、捕えられた。以下、この事件の関係者が、その後の六十年の長い月日をどう暮らしたか、さまざまな証言が続く。強姦された少女はその後、家に閉じ籠り、妊娠したのだが、生まれたばかりの赤ん坊をすぐ施設へやった。妹は、姉の狂気すれすれのその悲しみを脇でずっと見つづけてきた。森の洞窟に逃げた少年を説得に行った区長は、米軍に媚を売っていたのではないか、と島の人たちに疑いをかけられた。事件当時幼女だった女は、事件のなかでも戦慄する恐怖の箇所が幼くてよくわからなかったが、他の人から聞くことでようやく鮮明になってくる、など。そのなかでとりわけ重要なのは、強姦した米兵の証言である。銛を突かれた兵は、戦闘で傷ついたのではなく民間人の銛で傷病してしまったのだと病院のベッドでおちこんでいると、強姦した仲間が見舞いに来て「もう少しでこの島も陥落する。戦争もじきに終わるさ」と言い励まされ、一足早く国へ帰ることになるのだが、犯した少女の姿がちらついて脳裡を離れない。となればわれわれは、いったい誰を憎めばいいのか。犯人がそこにいるのに、裁くことなく理不尽に終わるという事情は、「もう少しでこの島も陥落する。戦争もじきに終わるさ」の言葉が端的にもの語っているのだが、それだけでいいのか。すべては、戦争が悪い、戦争のせいでこうなった――、ただこの事実だけで終わりとすることができるのか。

 当然この作品は戦争の叙述が多いのだが、この叙述と異なった色彩をもっているのは、島の人々についての叙述である。島の男たちは事件が目の前で起きていても何もできなかったのにたいし、少年だけが怒り銛を突いた、それなのに男たちは米軍による少年の山狩りが始まると手伝いに出ていった、許せない、という幼女の言や、強姦された少女の父が島の人々の眼差しや囁き声をかなり気にして生まれたばかりの赤ん坊を姉から取り上げ里子にだした、その処理の仕方を殺したいくらい憎む、という妹の言のなかの島の人々とは、戦争をもはや天命とみて、いわば“自然的”なものとする叙述ではなく、これを断ち切り対立する“人為”を感じさせる叙述であって、作者の創作意志がもっとも尖鋭化した箇所ではないか。おそらく島の人々は、短期間に戦争と平和の間を忙しく駆けて行ったのであろう。戦争が来れば戦争のように、平和が来れば平和なように、その時々にうまく迎合し、我が身を守るために、周囲に気を配り生きている。そのくせ他人の不幸には大きな目で覗き見して大声で罵り、囁き合う、正義に仮装した無責任で、臆病で、エゴイズムの大衆の姿である。実は正体は根をはった陰湿な巨悪であって、ほんとうにもっとも憎むべきは、親しいふりをしているあなたがただ、そう、それは、あなたなのだ……。

 かつて戦争があったが、あの戦争がすべて悪いのだ――そういう言は、すでに平和の時代では明確に言語になっていて、とりわけ沖縄では誰でもそう言えるという自然的なものになっているのであろう。作者は、これに苛立って、たぶんこれに対立する創作意志を強く際立てることで、見捨てられて、消えかかっている物語をすくいあげようとしたのにちがいない。作品中の、怒ったり、泣いたり、叫んだりしている彼らの言葉は、ほんとうは言語ではないのではないか。しばしそう思わせるほどに、波の音や風の音に入り混じっている呻き声だ。これを語る人々の記憶もかすれ、思い出せるか否か、そのぎりぎりのところでかろうじて吐かれたものである。たとえば今は施設に暮らす強姦された姉を妹が訪ねると、姉はしばらく穏やかな表情で海を見つめていて、不意に唇が動き何か言ったようだったので、え、何? と妹が聞き返すと、「聞こえるよ」とつぶやき、銛を突いた少年の名を言う。それがかすかな風の音と共に妹の耳に残ったのであるが、このとき偶然に妹に聞こえたがゆえに言葉として記録されているのであって、この偶然を逃せば記録されず永遠に消えていったのだ。まさしく、その意味では、はっきりと視える言語ではなく、眼の奥の森にあった、言語にならぬ物語を語っているのである。











◆『沖縄タイムス』 2009年8月22日

   新境地拓く沖縄戦の記憶

   評者=岡本由希子(編集者)


 沖縄戦の記憶の物語を書き続けてきた著者が新たな境地を拓いた。

 沖縄戦の最中、米軍に制圧された北部の島で事件は起こった。17歳の小夜子が対岸から泳いできた4人の米兵に浜辺で暴行を受ける。その後米兵たちは部落にまで入り込んでくるが大人たちは抵抗できない。ある日小夜子の幼なじみで島人からはうすのろと馬鹿にされている盛治が泳いでくる米兵を銛で刺す……。

 この事件を起点に、戦場と現在を往還し一話ごとに主役(視点)を変え時代を変え話法を変えて、人々に残された癒えることのない傷の発する音なき音に言葉を与えていく。「魂込め」「群蝶の木」等数々の短編で著者が試みてきた語りの手法の集成ともいえよう。

 記憶をたぐりよせること、否認すること、語りえない/語りたくないこと、悔恨とそれでも生きざるをえない自分を肯定したいというなけなしの願い。それらに容赦のないまなざしを投げる物語の上位の審級が、盛治と小夜子、そして異様な圧迫感を持つ中学校を舞台にした章の主人公(クラス中から凄惨なイジメを受けている少女)の声にならない問いであり、不意に届けられる銛の尖端である。

 この連作小説は、米軍基地をあくまで沖縄にとどめおこうとする力に呼応するかのように沖縄戦の記憶に一連の攻撃が加えられたころ(『季刊前夜』04年秋号〜07年夏号に連載)、自由主義史観研究会の「沖縄プロジェクト」、小林よしのり『沖縄論』、大江・岩波裁判、安部政権の発足、教育基本法の改訂、そして裁判を理由に歴史教科書から「集団自決」の「軍命」削除されていく、そうした緊張のなかで書き進められていた。沖縄戦の記憶をめぐる闘いはいまなお継続している。沖縄に生きるすべての者が当事者だ。思考停止をしようとも、繰り返し訪れる悪夢のように、思わぬところから届く銛の先端のように、この闘いからは逃れられない。

 小夜子のせりふ「聞(ち)かりんどー、セイジ」に号泣。私たちには聞こえているだろうか。











◆『琉球新報』 2009年8月23日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-148851-storytopic-6.html

  記憶へ挑戦する言葉の力

   評者=大城貞俊(作家)


 目取真俊は今、確実に読後の充足感を与えてくれる作家の1人である。目取真の芥川賞受賞作「水滴」は、それ以降の受賞作品で「水滴」をしのぐ作品はないと思わせるほどの優れた作品だと思われるが、今回も十分に小説の深さと人間へのいとおしさを味わわされた。余韻のままに摩周湖にでもおぼれたい心境だ。

 作品は、1つの事件にかかわった10人の視点から語られる。手法は、芥川の「藪(やぶ)の中」に類似するが、厳密に言えば、芥川の手法を凌駕(りょうが)し、10人は私たちをも含めて無数の民衆の視点でもある。

 事件の発端は戦時中の沖縄本島北部の島。その島で悲劇は起こる。日本軍の組織的な戦闘も終わり、米軍が北部一帯を鎮圧し、戦場は南部戦線へと移っていく。そんなつかの間の平穏な日々に、浅瀬で貝採りをしていた5人の少女がいた。フミ、ヒサコ、タミコ、フジコの4人は国民学校の4年生、そしてもう1人、タミコの姉で17歳になる小夜子だ。その集団へ、海を渡ってきた4人の米兵たちが襲いかかる。小夜子がアダン樹の下で強(ごう)姦(かん)される。この悲劇を最初の一石として、波紋は容赦なく広がっていく。1つ目の波紋は、小夜子の仇(あだ)を討つと1人で米兵と戦う村の若者、盛治の物語だ。盛治は、再び島へ渡って来る米兵を殺すため、銛(もり)を研ぎ、海に潜るのだが……、あとは作品を読んでもらおう。

 作品は、この盛治の「物語」から始まり、小夜子のその後、逃げ隠れた盛治を米兵に案内する区長、突き刺された米兵、妹、そして二世の通訳兵等々、この事件が生みだした悲しみの波紋が、時を越えて人間を壊し、今日までも続いている様が全方位的な視点から描かれるのである。

 初出は季刊『前夜』。2004年から07年まで連載されたものに加筆修正したと記されている。当時から注目されていた作品だが、記憶のタブーへ挑戦する作者の言葉の力には驚嘆する。作者特有の生理的でリアルな文体は、時間を超えて人間を壊す悲しみの連鎖を見事に描ききっている。濃密な作品を、満を持したかのように発表する作者の才能に、あらためて驚愕(きょうがく)させられる作品だ。











◆『ふぇみん』 2009年8月15日(第2899号)


 沖縄県今帰仁村に生まれ現在も沖縄に在住し、一貫して戦後の沖縄の風景や人々の中にある沖縄戦や米国による占領の傷跡などを描いてきた著者による連作小説。

 64年前の沖縄県北部にある米軍に占領された小さな島で、米兵による少女(小夜子)の輪かん事件が起こる。小説は、時代を超え空間を超えて事件に連なる人々の苦悩やつぶやきを、生命力にあふれた沖縄の空気感と色彩とともに鮮やかに織り上げた。狂気にいたる小夜子、小夜子を慕い米兵に復讐をする盛治、輪かんに加わり戦後は酒に溺れた米兵とその息子と孫、1995年の米兵による少女輪かん事件で封じていた記憶が蘇った女性、小夜子を蔑み暴力をふるった父や村人を憎む妹、学校の授業で事件を聞きいじめに遭う自分の境遇と照らす女生徒……。

 誰もがブラックホールのようにぱっくり開いた闇を抱え、占領や暴力がいつまでも残す傷跡の生々しさを描く。同時に時代を経ても響き合う小夜子と盛治の魂が美しい。(登)











◆関連書◆

 『目取真俊短篇小説選集1 魚群記』 目取真俊 著

 『目取真俊短篇小説選集2 赤い椰子の葉』 目取真俊 著

 『目取真俊短篇小説選集3 面影と連れて』 目取真俊 著

 『虹の鳥』 目取真俊 著

 『平和通りと名付けられた街を歩いて 目取真俊初期短篇集』 目取真俊 著 【品切】

 『目取真俊の世界(オキナワ)――歴史・記憶・物語』 スーザン・ブーテレイ 著