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★〈戦後を代表する二人の文学者の交流から、時代を読む〉
竹内栄美子、丸山珪一 編
中野重治・堀田善衞 往復書簡
1953-1979
2018年11月22日発売
四六判 上製 328頁
定価 3800円+税
ISBN978-4-87714-480-7 C0095
装丁:桂川 潤
●目次
●書評
●関連書
*「正誤表」
作家・中野重治と堀田善衞が、冷戦下の1953年から中野が亡くなる1979年までに断続的に交わした全書簡82通(うち未発表書簡61通)を収録。
これらの書簡からは、民族独立運動を背景にしたアジア・アフリカ作家運動、中ソ論争からソ連等のチェコスロヴァキア侵攻事件、中野の日本共産党からの除名問題、キューバの新たな模索、ヴェトナム戦争等々、国内外の政治・社会が激動する時代において、これに向き合い、それを考えるなかから作品を発表し、発言し行動を起こしてきた文学者たちの肉声が聞こえてくる。
書簡の内容を補完するために、書簡ごとに詳細な註を付した。また解説として、鎌田慧、海老坂武、栗原幸夫各氏による本往復書簡をめぐる書き下ろし論考と、中野・堀田と同時代を生きた文学者、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔による中野論・堀田論を再掲。さらに中野重治による堀田論、堀田善衞による中野論を収録し、巻末に関連年譜を付した。
戦後、国内外で政治と民主主義が大きく揺れ動くなか、戦後のあるべき文学と生き方を模索し格闘した文学者たちの証言。
〈編者・著者〉
●中野重治(なかの・しげはる)
1902年福井県生まれ。詩人・小説家・評論家。1926年堀辰雄らと『驢馬』を創刊。同時に,新人会に入会,マルクス主義,プロレタリア文学運動に向かう。日本プロレタリア芸術連盟,「ナップ」,「コップ」の結成に参加。運動の方針をめぐる議論のなかで多くの評論,詩,小説を発表。主な作品に、「村の家」「歌のわかれ」「五勺の酒」「梨の花」「甲乙丙丁」など。1947年~50年参議院議員。1979年没。
●堀田善衞(ほった・よしえ)
1918年富山県生まれ。小説家。1944年国際文化振興会から派遣されて上海に渡るが、敗戦後は中国国民党宣伝部に徴用されて上海に留まる。中国での経験をもとに、小説を書き始め、47年に帰国。52年「広場の孤独」「漢奸」で芥川賞を受賞。海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席。他の主な作品に、「歴史」「時間」「インドで考えたこと」「方丈記私記」「ゴヤ」など。1998年没。
* * *
●竹内栄美子(たけうち・えみこ)【編集】
1960年大分県生まれ。明治大学文学部教授。専門は日本近代文学。主な著書に『アジアの戦争と記憶』(共著、勉誠出版)、『中野重治と戦後文化運動』(論創社)、『中野重治書簡集』(共編、平凡社)、『戦後日本、中野重治という良心』(平凡社新書)ほか。
●丸山 珪一(まるやま・けいいち)【編集】
1941年大阪府生まれ。金沢大学名誉教授。中野重治を語る会代表世話人。堀田善衞の会代表。主にルカーチ・ジェルジ、中野重治、堀田善衞の名と結びついた分野での研究と取り組む。
●竹内 好(たけうち・よしみ)
1910年長野県生まれ。中国文学者・評論家。魯迅の研究・翻訳のほか、アジア的な視座から多くの文化・文学評論を手がける。主な著書に『魯迅』(日本評論社)、『現代中国論』(河出書房)ほか。1977年没。
●加藤周一(かとう・しゅういち)
1919年東京生まれ。医学博士、評論家、作家。文学・芸術・政治・文化全般にわたる評論を展開。主な著書に『羊の歌(正・続)』(岩波新書)、『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房)ほか。2008年没。
●鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)
1922年東京生まれ。哲学者・評論家。46年『思想の科学』創刊に参加。主な著書に『戦時期日本の精神史』(岩波書店)、『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店)ほか。2015年没。
●鎌田 慧(かまた・さとし)
1938年青森県生まれ。ルポライター。社会問題を幅広く追及、執筆。主な著書に『自動車絶望工場』(講談社文庫)、『六ヶ所村の記録』(岩波現代文庫)、『大杉栄―自由への疾走』(岩波現代文庫)ほか。
●海老坂 武(えびさか・たけし)
1934年東京生まれ。フランス文学者・評論家。主な著書に『フランツ・ファノン』(講談社)、『サルトル』(岩波新書)、『戦争文化と愛国心――非戦を考える』(みすず書房)、訳書に『黒い皮膚、白い仮面』(ファノン著、共訳、みすず書房)ほか。
●栗原 幸夫(くりはら・ゆきお)
1927年東京生まれ。編集者、評論家。べ平連、アジア・アフリカ作家会議などに参画しつつ、コミュニズム運動史、プロレタリア文学史等を研究。主な著書に『プロレタリア文学とその時代(増補新版)』(インパクト出版会)、『わが先行者たち―文学的肖像』(水声社)ほか。
書 評
◆『世界文学』No.129(2019年7月10日発行。発行者:世界文学会)
評者:平山令二さん
*
行動する作家の対話
――『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』を読む
平山 令二
1
この往復書簡を見たときに最初に感じたのは、「やはり」という思いであり、次に感じたのは「どうして」という思いだった。「やはり」というのは、中野と堀田というふたりの作家は16歳の年齢差はあるものの、共通した面を多く持っていたから、当然往復書簡があってしかるべきと感じたからである。まず生地であるが、中野は福井県、堀田は富山県とそれぞれ北陸である。また、ふたりとも文学活動の出発点は詩であった。正確に言うと、中野は短歌から始まり詩を書いた。堀田も学生時代には詩を書いていて、自伝的小説のタイトルはジェイムス・ジョイスをもじって『若き日の詩人たちの肖像』である。詩作からふたりとも小説、評論、エッセイなど多面的な創作活動を始めた。3つ目の共通点は、そしてこれがもっとも重要な共通点だが、ふたりとも政治への関心、関与を生涯失うことがなかったことである。言うまでもなく、中野は東大新人会からコミュニストとしての道を歩み、治安維持法により逮捕され、2年間刑務所に入れられ、転向する。戦後は共産党の参議院議員となり政治家として活躍するが、やがて党内の路線争いにより除名処分を受ける。他方、戦後堀田は「広場の孤独」で芥川賞を受賞するが、同作のテーマは占領下の日本のアクチュアルな政治状況であった。その後も、堀田はAA(アジア・アフリカ)作家会議の日本事務局長という立場で、冷戦や中ソ対立など複雑な国際政治に関わっていく、あるいは否応なしに巻き込まれていく。以上のように重要な共通点があるのだから、このふたりの往復書簡が出版されて当然ということになる。「やはり往復書簡があったのだ」というのが私の最初の印象だった。
この往復書簡は私にとってもありがたいものであった。ドイツ文学を専攻しようとした理由のひとつには、『歌のわかれ』『むらぎも』など中野の小説を読んで感動し、独文出身の中野の道を自分も進みたいと思ったことがある。他方、堀田の小説も愛読し、大評伝『ゴヤ』を読んで感動し、ゴヤの版画集を買ったりした。つまり、中野も堀田も私が敬愛し、愛読する作家であった。そのふたりが一体どんな手紙を交わしていたのか、まさに興味津々であった。
「どうして」という感想は、「やはり」の反面である。これほど共通点の多いふたりの作家の往復書簡が、「どうしてこれまで出版されなかったのか」という疑問が生じたのである。それぞれ立派な全集のある作家なのだから、どこかの出版社がもっと前に企画してもよかったのではないか、と思った。往復書簡の内訳は、中野から堀田が46通、堀田から中野が36通、計82通である。もっとも、長い手紙はないので、分量としてはそれほどのものではない。
しかしながら、読み進めるうちにどうしてこれまでこの往復書簡集が出版されなかったのか、という理由が推測できるようになった。それは、往復書簡でふたりが取り上げているテーマの問題である。中野と堀田という文学的教養が広くて深い作家、そして国内外の政治状況について広い視野のある作家ふたりの書簡なのだから、互いの作品の批評や文学論、あるいは内外の政治状況が縦横無尽に論じられているのではないか、と予想したのだが、そしてそういう問題も扱われていないことはないのだが、往復書簡の取り上げているテーマはもっと実際的な問題である。往復書簡のテーマは、編者のひとり竹内栄美子氏の解説では、次のようになる。「1953年のローゼンバーグ事件から、1956年に始まるアジア・アフリカ作家会議(AA作家会議)、その分裂をもたらした1960年代の中ソ論争、1964年の中野重治の日本共産党除名問題、1968年のチェコ事件など」。さらに、中国と東ドイツへ一緒にした旅行も話題になっている。中国へは、1957年10月に中国作家協会から招待され、山本健吉、井上靖、本多秋五などと北京、上海、重慶、広州などの都市を訪問した。また1965年5月には、中野と堀田のふたりだけで、ベルリン・ヴァイマル国際作家会議のため東ドイツを訪問している。
2
以上のように、中野と堀田の往復書簡には、突拍子もない比較であるが『ゲーテ・シラー往復書簡』のように時代状況、芸術や思想について自らの見解を手紙で長々と披瀝するとか、互いの作品を細部に至るまで論評する、といった悠長な調子はないのである。ふたりの手紙は、とりわけAA作家会議関係に顕著なように、実践的な問題を解決するために書かれたものが多い。したがって、この往復書簡集は詳細な注釈がなければ読むことがかなり困難であったろう。往復書簡の刊行が21世紀にまで持ち越された理由はここにある。したがって中野の優れた研究者、竹内栄美子氏、堀田の優れた研究者、丸山珪一氏の大変な労作とよぶべき詳細な注釈の助けなしでは、刊行は不可能であった。まず、このおふたりの研究者に感謝すべきであろう。
この往復書簡が注釈なしでは読みにくい理由は3つの層からなる。第1に、個別具体的な課題がテーマなので、背景を知らないとなにが論じられているのか分からない。それも、会議の報告文書をどのようにまとめるのか、というような実践的課題がテーマになっていると、当時厳しく対立していた中ソの反応、あるいは他の関連する諸国の対応が分かっていないと理解できない。第2は、ふたりの往復書簡がすべて保管されていたわけではないので、欠落した部分を推論などで補わないと、理解できないところがある。第3には、ふたりの作家の独特の言語感覚である。それに慣れていないと、理解しにくいのである。
第3の問題は、とりわけ中野に関係する。中野の作品を読んだことのある人は、中野の文章の独特の難解さに馴染みがあるであろう。これは、評論にはなはだしいが、いわば「中野語」とでも呼ぶべき独特の日本語感覚がある。中野の文章を初めて読んだ人のなかには、この「中野語」につまずいて読み進めなくなった人もいると想像する。他方、「中野語」の独特な文体に愛着を覚え、中野の作品を幅広く読み進める人もいるであろう。私自身はもちろん後者であるが。
いくつか「中野語」の例を書簡に見てみよう。1966年6月16日の中野の書簡では、AA作家会議北京緊急集会に参加する日本代表団の報告原案に対する中野の意見が項目的に書かれている。そこでは、「1970年に迫った安保条約の改訂をまえにして」にあらず「1966年現在におけるその廃棄要求をまえにして」とすべきだ、と訂正を要求する。もっと分かりにくいのは、書簡を離れるが、付録として付けられている中野の「堀田善衞小論」の冒頭である。これこそ難解な「中野語」の極致であろう。
「作家という呼び方と文学者という呼び方があるとして-文学の学者というのはここにはいらない。便宜的にである。-堀田善衞は作家と呼ぶのがいいか文学者と呼ぶのがいいか。私一箇として、私の主観として、堀田善衞は文学者と呼ぶのがいいと私は思っている。日本現在の、ごく普通の条件のもとでである。作家という呼び方が、もう少しちがって使われるようになった場合はまた別である。」
圧巻と言うべき難解さである。他方、堀田の方は、それほど難解な言い回しはしない。中野よりもジャーナリスト的な資質を持ち、他人に分かってもらうことを重視していたからと思われる。
3
さて、この他に往復書簡集で興味深い点を順不同で述べてみよう。
1.中野は言葉遣いの面で、面倒臭い漢字はカタカナにしてしまうことがままある。例えば、「講演」は「コーエン」という風に、堀田も「コーエン」と書いているが、これは中野に影響されたのか、それとも堀田自身の癖なのだろうか。堀田もやはり面倒臭い漢字をカタカナにする傾向がある。
2.「堀田」という姓の読み方だが、1974年2月23日の手紙で、中野は「伏木のへんではホリタ様といいますか」と問うている。これに対する返信で、堀田は、伏木の辺りでは「ホリタ」が普通、と答えている。ただ、「私の父(養子)がどういうつもりかホッタだ、とガンバッタので」、ホッタと読まれるようになった、と説明を加えている。なお、注釈では、「ヨシエ」も本来「ゼンヱ」だったが、1950年代から「ヨシエ」に変えたとのことである。驚くべきことに、堀田善衞は「ホリタ ゼンヱ」だったのだ。
3.お互い著作の献呈をしているが、例えば堀田の『ゴヤ』について、中野は「『ゴヤ』頂戴、ありがたく、また御苦労様でした。(ほんとに御苦労でした。)」としか書いていない。堀田も中野の『レーニン素人の読み方』をもらったときに、「「レーニン」ありがとうございました。ようやく本になり、私も一安心です。」としか書いていない。献本されたときに、すぐ返事を書くのは作家仲間の礼儀であろうが、ふたりの代表作に対する相手の感想が聞きたかった。恐らく、ふたりは相互の仕事に注目していたものの、資質の違いを意識していて、要らぬ感想は筋違いと思い、書きつけるのを遠慮したのではなかろうか。
4.堀田の1969年11月29日消印の手紙では、中野の『甲乙丙丁』下巻をもらった謝辞を述べたあと、奥付の発行年月日に元号を使っていることに対して「やはり西暦をおつかいになってはどうでしょう。そのほうがよいと思います」と提案している。これに対して、中野も「気がつきませんでした」、「増刷の場合に変えましょう」と応じている。注釈によると、出版社の領分である奥付においてはこういった行き違いが起こりやすく、堀田の本でも元号が使われているケースがあるそうだ。いずれにしろ、この元号使用問題から中野も堀田も戦前・戦中の天皇制について常に鋭い批判意識を持っていたことが分かる。
中野と堀田というふたりの行動する社会派作家に共通するところは、戦前と戦後に絶対的な断絶がなければならない、という強い思いがあったことであろう。コミュニストで牢獄につながれた中野にとっても、軍隊に引きずりだされ上海で日本軍の残虐行為を目撃したリベラリスト堀田にとってもこの点で違いはなかった。戦前・戦後の断絶の実現に自らの力も加えるために、ふたりは中国を筆頭にアジアの国々と交流し、ソ連や東ドイツ、キューバといった社会主義国との交流にも力を尽くした。断絶はまた、戦前の天皇制とそれを支持した民衆の心情との対決も意味した。今、社会主義の魅力は薄れたが、中国や韓国・北朝鮮などアジアの近隣諸国との関係構築、また代替わりに伴う天皇という存在の意味の把握は現在の問題でもある。ふたりの交流をこのような現代の課題に照らして読み直すことが求められているだろう。ありがたいことに、本著の後半部の「解説編」には、竹内栄美子氏と丸山珪一氏の詳細かつ懇切な解説の他、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔、鎌田慧、海老坂武、栗原幸夫による中野重治、堀田善衞についての優れた論考が収められている。往復書簡を読み解く鍵がいくつも与えられているのである。
(影書房、2018年)
◆『社会文学』第50号(2019年8月)
評者:久保田裕子さん
◆『図書新聞』(2019・4・13)
評者:佐藤 泉さん
◆『唯物論研究』146号(2019.2月)
評者:日野範之さん(真宗大谷派僧侶、文学)
◆『週刊金曜日』(2019・2・15号)
評者:伊藤氏貴さん(文藝評論家、明治大学准教授)
◆『週刊読書人』(2019・1・25)
https://dokushojin.com/article.html?i=4924
評者:尾西康充さん
(関連記事)
◆『東京新聞』(2018・12・22)
◆『北陸中日新聞』(2018・12・22)
転載元リンク: http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201812/CK2018121502000210.html
現代史描き出す書簡
「中野重治・堀田善衛 往復書簡 1953-1979」が刊行戦後日本文学を代表する作家中野重治(一九〇二~七九年)と堀田善衛(一八~九八年)の往復書簡八十二通を収めた「中野重治・堀田善衛往復書簡 一九五三-一九七九」(影書房)が刊行された。未発表六十一通を含む。
年齢こそ十六歳離れていたものの、中野は福井県坂井市、堀田は富山県高岡市の出身で、ともに北陸で生まれ育った。それだけでなく、現代史における日本のアジア侵略の事実から目をそらさない姿勢から、互いに厚い信頼関係で結ばれていたことが分かる。戦後の日本現代史においても貴重な資料になる。
収録した書簡は、冷戦下の一九五三年から七九年の中野の死の直前までのもの。ユダヤ系アメリカ人の電気技術者と妻が旧ソ連に原爆製造の機密情報を流したとして死刑判決を受けて執行されたローゼンバーグ事件、五六年に始まり二人が関わったアジア・アフリカ作家会議、六八年のチェコ事件など、戦後史における国際的にも重要な事件についてもやり取りが交わされている。「発表された文章とはまた異なる肉声が書簡からは聞こえてくる」(竹内栄美子・明大教授『中野重治と堀田善衛-戦後史の中で』)。
資料として、生前の中野と堀田が互いの文学について記した中野の「堀田善衛小論」(初出一九七四年)と堀田の「墓からの声-中野重治追悼」(同八〇年)を収録。解説編では、編者の竹内教授と丸山珪一・金沢大名誉教授がそれぞれ書簡を読み解いているほか、加藤周一の堀田論、竹内好と鶴見俊輔さんの中野論を掲載。ルポライター鎌田慧さん、フランス文学者の海老坂武さん、編集者・評論家の栗原幸夫さんによる書き下ろしの論考も。三千八百円(税別)。
◆『図書新聞』(2018・12・22)
「下半期読書アンケート」 評者:鶴見太郎さん
(関連記事)
◆『日本経済新聞』(2018・11・10)
◆関連書◆
戦後文学エッセイ選(全13巻) 第11巻 堀田善衞集
①花田清輝集/②長谷川四郎集/③埴谷雄高集/④竹内 好集/⑤武田泰淳集/⑥杉浦明平集/⑦富士正晴集/⑧木下順二集/⑨野間 宏集/⑩島尾敏雄集/⑫上野英信集/⑬井上光晴集
『中野重治研究 第一輯』 中野重治の会 編集
『「断念」の系譜――近代日本文学への一視覚』 太田哲男 著
『プロレタリア文学の経験を読む――浮浪ニヒリズムの時代とその精神史』 武藤武美 著
『夢ナキ季節ノ歌――近代日本文学における「浮遊」の諸相』 本堂 明 著
『金子文子――自己・天皇制国家・朝鮮人』 山田昭次 著
『難波大助・虎ノ門事件――愛を求めたテロリスト』 中原静子 著
『治安維持法下に生きて――高沖陽造の証言』 太田哲男・高村宏・本村四郎・鷲山恭彦 編
『〈日本の戦争〉と詩人たち』 石川逸子 著
『あるB・C級戦犯の戦後史――ほんとうの戦争責任とは何か』 富永正三 著