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日本に欠落する侵略者としての責任とは

富永正三
〔新版〕
あるB・C級戦犯の戦後史
――ほんとうの戦争責任とは何か


2010年8月刊
四六判上製272頁
定価 2000円+税
ISBN978-4-87714-407-4


●目次
●書評
●編集部より






からの命令だったとはいえ、人間として間違った行為をした―」
戦争中、中国人捕虜斬殺の実行・命令に関与した著者は、中国の管理所で6年間戦犯として過ごす中、なぜ、自分は「鬼」と呼ばれるような人間になってしまったのか? と考え続けた。
「自分は命令に従っただけで、罪はない」のか?…… 
はからずも国家によって侵略兵士とされ、結果、重い罪を背負うことになった著者は、いかにして自身に染み付いた排外的軍国主義を克服していったのか。また、中国は日本人戦犯らをどのように処遇したのか。そして、人間性を取り戻した著者が辿りついた戦争責任論とは? 思想の軌跡を記す。
新たに解題2篇を付した決定版。

〈著者略歴〉
富永正三(とみなが・しょうぞう)
1914年5月、熊本県に生まれる。
1939年3月、東京大学農学部農業経済学科卒。
1939年4月、満州糧穀会社(満州農産公社)入社。
1940年2月、熊本歩兵第一三連隊補充隊入隊。
1941年8月、中支派遣第三九師団歩兵第二三二連隊へ転属(湖北省荊門県子陵舗)。
1943年7月、歩兵第二三二連隊第十中隊長。
1945年8月、「満州」開原にて敗戦。シベリア抑留。
1950年7月、対中国戦犯としてソ連より中国へ引き渡される。
1956年9月、不起訴となり帰国。舞鶴にて復員。
1960年4月、私立高等学校講師のち教諭。
1982年11月、中帰連(中連)会長代行。
1983年10月、中帰連(中連)会長。
1984年3月、私立高校を退職。
1985年4月、「平和のための戦争資料展」実行委員長。
1986年10月、中帰連代表委員。
1988年10月、中帰連会長。
2002年1月13日、死去。
※ 中帰連(中国帰還者連絡会)に関しては、会が発行した書籍、『完全版・三光』(晩聲社)、『私たちは中国で何をしたか』(三一書房)、『帰ってきた戦犯たちの後半生――中国帰還者連絡会の40年』(新風書房)、季刊『中帰連』等をご参照ください。

(本書刊行時点)






◆『あるB・C級戦犯の戦後史』目次◆

まえがき
第一編 B・C級戦犯の宿命
1 序章――敗戦そして捕虜
2 戦犯としての取り調べ
3 「唐丸列車」――ソ連から中国へ
4 自暴と反抗の日々――撫順戦犯管理所
5 朝鮮戦争のなかで――呼蘭監獄
6 思想転変のきっかけ――ハルビン監獄

  生活の知恵あれこれ
  学習への意欲
  坦白学習と地下牢
7 病院で
  カリエスの苦しみ――ハルビン医大附属病院
  撫順療養所
  病院で考える
8 認罪への遠い道のり――「第三所」での生活
  認罪学習の総括
  参観学習――はじめて中国人民の怒りにふれる
  中国の寛大政策と私たち
9 釈放、帰国!
  起訴と不起訴のあいだ
  16年ぶりの帰国
10 帰国後の生活
  1 中国帰還者連絡会
  2 困難な社会復帰――「ニコヨン」の体験
  3 日本商品展覧会の周辺
  4 戦犯首相への憤り――再失業そして安保闘争
  5 はるかな認罪への道

第二編 B・C級戦犯と戦争責任
1 人民中国以外のB・C級戦犯の裁判
 (1) アメリカ飛行士の斬首事件
 (2) 泰緬鉄道建設における俘虜虐待事件
 (3) 無実の罪に服した木村久夫上等兵
 (4) ポンチャナク事件
2 戦争犯罪とは何か、どうとらえるか
3 ある抗命
4 戦争責任について
 (1) 責任は誰が負うのか
 (2) 再び過ちをくり返さないために
あとがき 
   *
解 題 
  中国から帰った戦犯の誓いと歩み   小山一郎
  侵略兵士たちの体験と思いを語り継ぐ   矢崎光晴








書 評




● 『出版ニュース』2010年9月下旬号

 著者(1914〜2002)は出征先の中国で敗戦を迎え、シベリアで捕虜として5年過ごした後、中国で戦犯としてさらに6年間拘留、1956年に帰国する。本書は、1977年初版(水曜社刊)の復刊で、中国侵略戦争に従事した著者が、自己との長く苦しい格闘の末にたどり着いた戦犯と戦争責任総括の書である。B・C級戦犯の問題は、『私は貝になりたい』をはじめ数多くのノンフィクションや体験記、論考が残されているが、著者は「たとえ戦場においてのことであっても非人道的行為は許されない。命令に従うか、従わないかは、本人の選択の問題であり、みずから選択した行為に対しては当然責任をとるべきである」という考え方への転変と、その根拠を提起する。その考えは、ハルビン監獄での体験から帰国後の生活を経ての戦犯問題の捉え返しという思考と葛藤を踏まえた提起であって、説得力に富む。戦後65年の状況に一石を投じる復刊。







● 『ふぇみん』2010年10月5日号

 著者、富永正三さんは、大学卒業後、満州糧穀に入社。1940年に熊本の連隊に入隊したのち、中支派遣軍として旧満州に派遣された。敗戦後、シベリア抑留生活ののち、戦犯として他の1000人以上の兵士たちとともに中国の「撫順戦犯管理所」に送られる。戦争中、中国人斬殺など、残虐行為を重ね、死刑も免れぬ覚悟をしていた。ところが中国政府の扱いは意外なものだった……。
 戦犯管理所で6年間、罪と向き合い、鬼から人間へ生まれ変わった富永さんは帰国後、仲間たちと中国帰還者連絡会(中帰連)を立ち上げ、「日中友好」「反戦平和」を掲げて命の限り証言を続ける。自らの罪をどうつぐなうか。何が彼らを変えたのか。戦争責任とは何か。再び過ちを繰り返さないために、何をすべきか。これらは2002年に他界した富永さんから与えられた課題でもある。本書は1977年に出版された初版(水曜社刊)の復刊版。著者の深い思索を追いながら、考えてみたい。













[編集部より]



 本書の著者・富永正三さんは、戦時中の捕虜刺殺に関与した罪で対中国戦犯となり、戦後、中国で6年間を過ごした元侵略兵士です。富永さんは、1956年に不起訴となり復員し、以後、中国での日本の侵略戦争の実相とは何か、とくに、ご自身の加害行為を証言してこられました。

 そうした活動の原点には、「戦争なんだから残虐行為は仕方がない」「上官の命令に従っただけで、自分には責任はない」という考えから、「たとえ戦場においてのことであっても非人道的行為は許されない、命令に従うか、従わないかは、本人の選択の問題であり、みずから選択した行為に対しては当然責任をとるべきである」という考えへの転換がありました。

 本書は、「うむを言わさぬ国家権力によって、戦場という特殊の環境に送り込まれ、罪なき人々を殺すことを強制される。はじめは抵抗を感じるが、やがては当たり前だと思うようになる。つまり『人間』ではなくなった」、そうした著者が「踏みつぶされた人間的良心をよみがえらせるために必死の自己闘争を続け」(p4)た過程の記録です。

 東京帝国大学農学部出身の、当時の日本社会のエリートだった富永さんでさえも、戦争は避けられないものとの空気にのみこまれていき、また、敗戦時に自らの責任を認識することは簡単ではありませんでした。

 しかし、「民家を焼き」「奪い」「殺した」その先にある被害の実態を知った時、自分の罪の重さを認識し、どうして、自分が「鬼」と憎まれるような人間になってしまったのかと考え深めるようになります。

 残念ながら現代であっても、同調圧力は強く、体制維持のために個人の犠牲はやむ得しという風潮が根深くあります。雇用や教育の場では、「命令」の名の下に、人間性をおしつぶす状況がいまだ続いています。

 本書は、1977年に水曜社から刊行されたものの復刊ですが、富永さんたちを「鬼」にした原因が、日本社会にいまだ根強く残っているからこそ、富永さんたちの天皇制軍国主義から人間尊重への自己変革の営みを、現代の状況に引きつけながら読んでいただきたい、とも思っております。

 「……日本を亡国に導いた一連のA級戦犯の戦争指導を正しいと信じて愚かにも受け入れ、あるいは、間違いだと思いながら不甲斐なくもそれに協力し」、「心ならずも権力に屈した不甲斐なさを克服すること」、「だまされない人間になること」(p237)を、まずは一人一人が身につけなければ、と富永さんは言われます。

 そして、「その上に、自分にそのような過ちを犯させた戦犯の戦争責任を追及する態度」を、と。

 今回の復刊に際し、著者の帰国後の活動を紹介するため、同じく中国で戦犯となり、帰国後「中帰連(中国帰還者連絡会)」の会員として、ともに「反戦・平和」の活動を続けてこられた小山一郎さんと、やはり元・戦犯を父にもつ矢崎光晴さんによる「解題」を収録させていたきました。

 ぜひ、本書を多くの方に手にとっていただきたいと願っております。

                                        
(2010年8月 影書房 編集部)