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★「在日」を、民族を、暮らしをうたう。悲しみをうたう。
李正子 著
歌集 沙 果 、林檎そして
2010年11月刊
四六判上製221頁
定価 2200円+税
ISBN978-4-87714-410-4
●目次
●書評
●編集部より
●関連書
デラシネに保証などなきふるさともなくて口ずさむ朝鮮の 詩
この国の強いる理不尽が、百年つづく支配の闇が、悲しみとなってふりつもり、凝固する――
在日韓国人として、一人の生活者として日本に生きる「日常」を短歌に読みつづけてきた著者による、エッセイ6篇を織り込んだ待望の第5歌集。
〈著者略歴〉
李 正子(イ・チョンジャ)
1947年、三重県伊賀市(旧上野市)に生まれる。
1965年、三重県立上野高等学校卒業。
中学校時代に短歌と出会い、二十歳頃から作歌を始める。
1984年、歌集『鳳仙花のうた』(雁書館、絶版)刊行。
1991年、歌集『ナグネタリョン――永遠の恋人』(河出書房新社)刊行。
1994年、『ふりむけば日本』(河出書房新社、雁書館刊『鳳仙花のうた』を織り込んだエッセイ集)刊行。
1997年、歌集『葉桜』(河出書房新社)刊行。
2003年、『鳳仙花のうた』(影書房、『ふりむけば日本』を底本とした増補版、品切)刊行。
2004年、歌集『マッパラムの丘』(作品社)刊行。
2005年、韓日友情四十周年記念国際フォーラム(於・京都国際会館)で韓国時調詩人、日本短歌歌人との競演に出演。
2006年、『在日文学全集 17』(共著・勉誠出版)刊行。
在日韓国人歌人として初めて、作品が日本の中学高校の教科書に採用される。
短歌結社「未来」所属。短歌会「風」主宰。Tanka college「マダン」通信講座主宰。伊賀市、津市に短歌講座を置く。
(本書刊行時点)
書 評
● 『マダン』 7号 (2011・9月)
『沙果、林檎そして』に寄せて
評者=石川逸子(詩人)
歌集『鳳仙花のうた』で、心ある人々に深い衝撃を与えた、李正子さんの第五歌集。
『鳳仙花のうた』刊行は1984年。それから24年の歳月がながれ、日本世間は、変わったろうか。チョーセン人!と石磔打つものたちは、いなくなったろうか。
朝日歌壇観賞会なる攻撃文私はわたしの暮らし詠むまで
背もたれのなき椅子に座りなにおもう日本育ちのニッポン不信
と今なお彼女に詠ませるこの国の在りよう。韓流ブームに沸きながら、かたや共和国バッシングに血道を上げる世論には、そもそも日本の植民地支配がなければ朝鮮半島分断はなかった、との視点も反省もない浅ましさ。
そのような日本で、第五歌集では、雀のような学生に交じって必死に学んだ母国語が頻繁に使われる。詩集題の沙果からして、韓国語で林檎のことであり、(砂にまぎれ遺伝子のまま海峡を母と渡った沙果に風花)と詠む著者がいる。
潦(にわたずみ)、脳(なずき)、糸遊(いとゆう)などの古語、あるいは俗語、カタカナで表す外来語、大阪弁、アンニョン、デラシネなどの韓国語、ハングル、英語を自在に駆使してほとばしる歌は、これまでの短歌になかった形であり、あとがきに記されているように、「涙の数を重ねて生きてきた」苦しみから生み出された、新しく美しい形なのだ。
李相和(イ・サンファ)の詩「奪われた野にも春は来るか」を泣きながら読む著者は、タヒャン暮らしのなかではるか彼方に旅立っていった父を、13年間寝たきりで逝った母を、姉を、キミを、送りながら、木枯らしに吹かれ、目深に黒革のキャップをかぶって涙を隠している。左の三首などは、その中で詠まれた絶唱というべきであろう。
さみしさのとなりあわせになにもなし13歳からたそがれていた
父ははにキミに会いたいふとあいたいあいたくて会えなくて闇ただしろい
ナグネ、デラシネ知る幸いは日本人が知らずに過ぎるかなしみストリート
韓国では顰蹙を買う梅干を風邪のときには白粥に落として食べるのがうれしく、一方、冬至には小豆粥(パッチュ)を炊かずにはいられない著者は、かなしみストリートに立ち、かなしみは人をゆたかにし、その彼方には希望があるから、「日本に生まれた歓びを想う」こともあると記す。
そのようなかなしみを与え続けた日本人の一人として、ただ慚愧に堪えないなか、栞の山本富美夫の誠実な一文がうれしい。かつて「チョーセン人、チョーセンへ帰れ!」と罵った小学二、三年生が、20年間温め40年後、著者に送った12000字余りの長文の手紙。「行き先異なる流れを挟み、ひとつ海に注がれる日に向う盟友」と受け止めた著者。
すておきしグリーンピースの双葉萌ゆ生きたいものです命もつものは
傷深い貝にくるまれ、真っ白に育った真珠を著者は詠んだが、この歌集こそ真珠そのものに見える。
● 「WEP俳句通信」vol.60 (2011.2.14)
再び「在日」を問う短歌(文学エッセイ 放浪のかたち43)
評者=酒井佐忠(文芸ジャーナリスト・元毎日新聞専門編集委員)
優れた詩集に贈られる今年の第41回高見順賞は、金時鐘(キム・シジョン)の『失われた季節』(藤原書店)に決まった。その知らせを聞いた時、少し意外な感じがした。高見順賞といえば、先鋭的な言語感覚でイメージ主体の詩的世界を構築する最先端の詩人が対象になる場合が多い。言葉と意識の狭間を探索する実験的詩人の吉増剛造が、第一回の受賞者だったことがそれを象徴している。
金時鐘がふさわしくない、と言っているわけではない。そうではなくて、彼のように生の根幹にかかわる重たい主題を生涯のテーマとして表現する、いや表現せざるを得ない詩人が再び脚光を浴びることを喜んでいるのである。もちろん金時鐘の詩業が、すべての「在日文学」の理想的な在り様として存在するわけでもない。だが、小説も詩も俳句も短歌も、文学そのものが、大きなテーマ主義から限りなく遠くなった21世紀初頭の現在に、韓流ドラマや都合のいい相対主義の影で「在日朝鮮人文学」の投げかける問題もまた、遥か彼方に追いやられていることに、今回の受賞は何ほどかの警鐘を鳴らしていると思うのだ。
たまたま私は昨年、松原新一・倉橋健一共著の『70年代の金時鐘論』(砂子屋書房)に目を通していた。また、急速に親交を深めていた詩人・河津聖恵が、金時鐘の言葉に導かれ、また、同志社大学に留学中、治安維持法で検挙され、1945年に福岡刑務所で獄死した「星の詩人」尹東柱(ユン・ドンジュ)に魅せられ、詩を通じて「朝鮮学校無償化除外反対」の運動にまい進していったことも知っている。そのような流れの中で、相対化することがモダンと考えられていた「在日」の問題が、消すことのできない熾火のように、火勢を強めているように思われる。
だが、今回の「放浪」の主人公は、金時鐘でも尹東柱でもない。1947年、三重県伊賀市生まれの歌人・李正子(イ・チョンジャ)である。
彼女はすでに『鳳仙花のうた』『ナグネタリョン』などの歌集を出し、歌誌「未来」に所属する歌人として知られている。私が読んだのは、昨年11月に出された『沙果、林檎そして』(影書房)と題する5冊目の歌集である。白地の簡素な装丁の中に、6篇のエッセイも含めたこの一冊に、いま歌壇が忘れ去った重い主題によって短歌が綴られているのに共感した。いわゆる「在日2世」となる李正子の、心と身体に宿った悲しみと優しさが、むしろ穏やかな言葉により、一層読者の胸を打つのである。
おしゃべりな耳あり眠るたび膝であなたが歌っていた他郷暮らし
かなしみの白ものおもう白母の白きょうはわかれの白をまとえり
ただひとつ聞きたきことありお母さんしあわせでしたかニホンの暮らし
こんな短歌に目がとまる。一首目の最後に置かれた「他郷暮らし(タヒャンサリ)」は、韓国では知られた懐メロ。それを歌っていたのは日本に渡ってきた父。父は事あるごとに、遠い過去を手繰り寄せるかのようにこの懐メロを口ずさんだ。その父の膝の上で、幼い李正子が何度その歌を耳にしたことか。「父の膝枕に夜毎に聴いた切ないまでにもの寂しい歌」がよみがえる。二首目、三首目は、三年前に96歳で亡くなった母の挽歌。母が残したのは数多くの色のチマ、チョゴリ。黄色や紺、水色、オレンジもあったが、やはり白をまとった母が浮かぶ。母国にとって白は、悲しみの色であり、また同時に誇りの象徴でもあった。あの白磁の凛とした美しさの中に隠された、悲しみの影を思い起こしてもいい。その母に、「母国を離れたニホンの暮らしは幸せだったか」と作者は問うている。
捨てたきは国家国籍国境か 月を羨しむひとつがうつくし
デラシネに保証などなきふるさともなくて口ずさむ朝鮮の詩
沙にまぎれ遺伝子のまま海峡を母と渡った沙果の風花
国とは何か。多民族社会とはいえない日本では、とりわけ違和感は強くなる。国家や国籍は最早、作者にとって問われるべきものではない。ただひとりの「私」がいるだけだ。ふとそんな思いにかられる時もある。一首目は、存在の根源を求めて揺れる私が、ただ一つの確固とした実存を示す月と対照的に描かれて、心打たれる。二首目は、日本では「デラシネ」の放浪性を感じながら、母国の詩に惹かれる感情が切ない。林檎を意味する「沙果」への思いを語った三首目も、いまここにはない自らの遺伝子のもとを探る悲しみに満ちている。
作者にとってさらに悲しみを深めたことは、37歳の息子を突然亡くしたことだ。彼の挽歌はここにはほとんど載せていないと彼女は言う。それほど悲嘆は強かったのだ。〈イ・チョンジャまた李正子 或いは香山いずれが名かと子が問いかける〉。母の名前はどれなのか。かつて母にそう問いかけた息子である。わが子の問いに、母ははっきりした回答を出すことができなかったと自らを責めつつ「かなしみが人を限りなく豊かにすることを知った」と彼女は、納得する。
この歌集は人間存在の根底のありように触れている。重たい主題を、決して暗くはない言葉とたゆたうようなリズムで表現している。「在日」の問題は、単に国の在処を求めるだけのことではない普遍性を抱えている。軽い調子の遊びのような短歌がはやる現在の歌壇に、一石を投じる李正子には、どんな俳句を贈ろうか。
父母の墓辺この冬墓は「淋しがり」 中村草田男
流人墓地寒潮の日のたかかりき 石原八束
ひとりで生れいまは河口の夕焼よ 清水径子
●短歌総合新聞「梧葉」(梧葉出版)2011.1.25
かなしみという豊かさ
評者=結城千賀子(表現)
十代の頃、日本史の教師から「古代日本には半島の人々が沢山の文化を齎し、そのまま住みついた者も多い。君達の祖も辿ってゆくとそうした人々の系譜と交わる場合がある」と教えられ、何か世界が広がったような感じがした。
二十代で、李恢成の小説『伽耶子のために』を読んで在日の人々の立場と苦衷に心重くなった。
三十代、李正子歌集『鳳仙花のうた』の、
・石つぶて受けておさなき心にも「鮮人」の意地に涙こらえき
に、胸を衝かれた。
本集の「沙果」は韓国語で林檎のことという。
・うすあおき風傷の林檎のてざわりに次の世も次の世もりんごのてざわり
「林檎そして沙果にもなれぬ」日本生まれの韓国人の痛みと悲しみは、世代から世代へ受け継がれてゆく。
・仏壇に額(むか)伏せ儒教の礼(いや)をするこれも日本に生きのびる知恵
・左右どこか歪な思いのまま生きてたぶんいびつに二つの眉も
・この国に生まれて再入国許可書要る一体わたし入国したの?
・背もたれのなき椅子に座りおもうなに日本育ちのニッポン不信
・デラシネに保証などなきふるさともなくて口ずさむ朝鮮の詩(うた)
右五首にも在日ゆえの悲憤が籠もり、それは翻って、当たり前に日本を祖国とする我々への鋭い問いかけとなる。著者が母国語(ウリマル)、詩、と詠うとき、短歌という日本語の詩に関わる者の覚悟が問われもするのである。また、祖国へ還るなき老母と夭折の子息への思いは深い。
・アリランの歌のみ記憶する母の眼にわたくしはみしらぬ女
・ただひとつ聞きたきことありお母さんしあわせでしたかニホンの暮らし
・予定表のページにけっしてなき別れ追いつつ胸の伽耶琴(カヤグム)響(な)らす
・「暗行御史」全巻並ぶ本棚にキミの朝鮮に踏みまよいつつ
重いテーマの本集だが声高でないところに却って胸に迫るものがある。その基調となる感覚の、
・うすずみの地図にたどれぬ冬の駅いずくへかゆく貨車の連結
・ゆうぐれは扉(ドア)の向こうに扉(ドア)つづくあけられぬ鍵つぎつぎに挿す
等には流離と孤愁の色が濃い。そんな中でホッと心解かれるは、学ぶことに意欲的な著者が、母国の文化を詠う時である。
・寧楽(なら)は奈良ウリナラの나라(ナラ)未知の祖(おや)未知の暖色染みて還流す
・遥かなる大和の遺跡の鬼瓦蓮の模様に映るは百済(ペクチェ)
・韓国の壺のふるさと美術史をはるかな風に吹かれつつ聴く
右一首目は、東大寺開墾移民を祖とする伊賀島ヶ原に因み、二首目は文化の伝承を偲ばせて大らか。三首目に筆者は、伝統を復活刷新した朴英淑の白磁月壺を思った。権力や国家間の軋轢にめげぬ「民族の普遍の明るさ」が美に凝縮するのだろう。
そして次の一首、一文に毅然とした著者の姿を見、自ずと背筋が伸びる。真の言葉は国籍を超え、人の心を打つのである。
・ただひとりの人とし歌を詠むほかになにもできないなにももたない
「日本に生まれた歓びを想うことがある。それはかなしみが人を限りなく豊かにすることを知ったときだ」(あとがき)
● 「読売新聞」 2010.12.24
母、長男の死 在日であること
生と哀しみ第5歌集
伊賀市在住の歌人で、読売新聞伊賀版に「現代短歌秀歌館」を執筆する李正子さんが第5歌集『沙果、林檎そして』を出版した。約400首を収録。在日ということや、母や長男の死などを巡りながら、韻律の中に哀しみと生の実感が交錯する緊密な世界を作り上げている。
「母のアリランひびく病室点滴をみまもる夜々を墜ちてゆくわたし」
「砧ひびく温突(オンドル)遥か歳月にあなたは老いてベッドにねむる」
前作の第4歌集『マッパラムの丘』(2004年)以降、李さんは、母や長男の死を経験。今回は、先に他界した父や姉を含め、家族を思う歌が随所にみられる。
4年前に亡くした長男に触れた歌――
「抱きしめてまただきしめるほかはなし母を裏切る遺影のおちょぼ口」
「今宵またふみしめ降りる足音が。やっぱり起きてきたんやね」
哀しみの一方で、家族との遠い思い出がときにみずみずしくよみがえってくる。
「公園のもみずるころは団栗を笊に満たしてふたり辿る家路」
「親子連れがリュックを背負い駆けおりる、ああこんな日があったな、たしか」
李さんは中学時代に短歌に興味を持ち、20歳の頃、朝日歌壇に投稿、1984年に第一歌集『鳳仙花(ポンソナ)のうた』を自費出版した。在日韓国人2世の苦悩を歌った、この歌集は再販もされ、約8000部の売上げを記録し、李さんの作品は、中学や高校の国語の教科書にも掲載されてきた。
韓国語でリンゴを意味する「沙果(サグァ)」をタイトルに入れた今回の歌集でも、在日は重いテーマとなっている。
「デラシネに保証などなきふるさともなくて口ずさむ朝鮮の詩(うた)」
「この国に生まれて渇く思いいくつ夕霧にしめり湖を這う」
自治体の外国人住民会議の委員になった時のことだろうか、こんな歌もある。
「初議題はゴミ出し情報に終始する共生は先ずこんなところから」
第一歌集で「喚声にかこまれて食む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは」などと、在日の意味を激しく問いかけた李さん。四半世紀を経て、李さんは「かなしみは人を豊かにする。かなしみに寄せる歌の波が、よろこびに変わる日まで、ゆくすえを追ってみたい」としている。
● 『高知新聞』 2010年12月18日
歌集『沙果、林檎そして』 在日の苦しみ、悲しみ
李正子(イ・チョンジャ)さんは、1947年生まれの在日朝鮮人2世。戦前に来日した両親のあいだに三重県で生まれた。20歳のころから歌を作りはじめ、歌誌「未来」に所属、自らも短歌会「風」を主宰している。
収録歌400余首。在日の苦しみ、悲しみに耐えてきた日々を切々と詠んでいる。例えば、死んだ母への歌。〈嶺を越え海を越えませ母鳥のふるさとは林檎の花さくころか〉〈ただひとつ聞きたきことありお母さんしあわせでしたかニホンの暮らし〉
37歳で逝った息子への歌。〈チマの裾ひらいてくるむおもいでの花たば秋日にねむらせながら〉〈未だ死を告げられなくてまた届く同窓会誌ゴミの日に出す〉
次の一首は、集中の絶唱のようにも思われる。〈ああ秋がおもいださせる父ははの身世打鈴(シンセタリョン)の夜の喉笛〉
エッセーでは、朝鮮語の“セヨ”と土佐弁の“ぜよ”に通じるものがありはしないかなど、朝鮮と高知のゆかりにもふれている。(片岡雅文)
● 『朝日新聞』(三重版) 2010年11月29日
http://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001011290005
伊賀の歌人 李正子さんが第5歌集
伊賀市在住の歌人、李正子(イチョンジャ)さん(63)が第5歌集「沙果、林檎 そして」を出版した。在日韓国人2世として生まれ育ち、一人の生活者として日本に生きる「日常」を詠んだ短歌約400首に、エッセー6編を織り込んだ。
中学の頃から短歌に興味を持った李さんは、県立上野高校在学中から、社会の矛盾や怒りなどを歌に詠んだ。20歳のころ、「はじめてのチョゴリ姿に未だ見ぬ祖国知りたき唄くちずさむ」を朝日歌壇に投稿し、故・近藤芳美氏の選でトップとなり、短歌の道を歩み始めた。
1984年に第1歌集を発表。今回は、2004年に発表した第4歌集「マッパラムの丘」以降の約6年間に詠んだ作品を収めた。
タイトルにある沙果は韓国語でリンゴのこと。「ものがたりのなかにオモニがなびかせる黄蝶の裳(チマ)が漣をなす」など、朝鮮半島で生まれた亡き母への思いを詠んだ歌もある。
「差別と闘っているといわれるが、生活そのものを歌っている。それが闘いになる」という。「ひかり散る鼻梁の翳りぬすみ見るこの恋どこまで水仙しろい」は、恋の歌で、「強い女のようにいわれるが、恋の歌もたくさん作っています」と話す。
● 『中日新聞』 2010年11月13日
2国につながる心詠む
伊賀市緑ヶ丘中町の歌人・李正子(イ チョンジャ)さん(63)が、自身の短歌集「沙果、林檎そして」(影書房)を15日に出版する。在日韓国人二世として、日本と韓国のはざまに置かれた複雑な心情を歌に詠んでまとめた。(河北彬光)
李さんは旧上野市生まれ。中学時代に国語の授業で短歌に出会い、高卒後から創作を始めた。歌人の故・近藤芳美氏に師事、現在は地元で通信短歌教室「マダン」を主宰し、全国各地の愛好家に指導している。歌集のタイトルにある沙果は、韓国語でリンゴを意味し、韓国と日本のつながりのある自身の境遇を表現している。
「温突(オンドル)の薪(まき)割(わ)る父亡く姉亡くて春夏秋冬まためぐる祭祀(チェサ=法事)
在日二世として苦悩や喜び、故郷への思いなどを詠んだ。最近六年間で詠んだ千首のうち、四百首余りを収録。「幼少時から自身の境遇に悩むことが多かったが、短歌に表現することで自分を開放できた」と振り返る。
四年前に病気で亡くした長男への愛情も詠んだほか、親しみやすいように日常を記したエッセーも六本掲載している。
李さんは「日本で生まれなければ短歌に出会うこともなかった。今後も自分が生きた記録を表現していきたい」と話す。
[編集部より]
本書の著者・李正子(イ・チョンジャ)さんは、1947年生まれ、三重県伊賀市在住の在日韓国人二世の歌人です。
二十歳のころ、「朝日新聞」の朝日歌壇に初めて投稿した歌、
はじめてのチョゴリ姿に未だ見ぬ祖国知りたき唄くちずさむ
が、近藤芳美氏の選でトップ掲載されたことがきっかけで、以来歌を詠み続けてこられました。このたびの新刊が第五歌集となります。
民族と出会いそめしはチョーセン人とはやされし春六歳なりき
「チョーセン人チョーセンへ還れ」のはやし唄そびらに聞きて少女期は過ぐ
泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ
(――以上、第一歌集『鳳仙花(ポンソナ)のうた』より)
日本の地方都市で生まれ育ち、何の疑問ももたずに幼時を過ぎて、小学校へ上がる六歳の春。周りの子どもたちからはやし立てられ、突如、自分がまわりとは異質な存在であり、「チョーセンジン」という言葉で罵しられる身であることを自覚させられる。以後の、弁当箱に砂を詰められ、石つぶてを投げられる日々。多感な時期を染めるあまりに過酷な現実……。
この第一歌集『鳳仙花のうた』に寄せられた「序」で、李さんの師でもある歌人の故・近藤芳美氏は、李さんの歌を「幼さと清純の中に、負って生きなければならない民族の悲しみと怒りとが激しくうたい告げられている」と記されています。そして「その悲しみと怒りとは、わたしたち日本人に向けられているものとも当然思わなければならなかった」とも。
第二歌集『ナグネタリョン』(河出書房新社)所収の、指紋押捺拒否の際の心情を詠んだ歌が、在日韓国人歌人として初めて「国語」教科書(三省堂)に採用されるなど、李正子さんは短歌の世界にとどまらず、高い注目を集めてきました。
第一歌集『鳳仙花のうた』出版から四半世紀、六篇のエッセイも織り込んだ最新歌集『沙果、林檎そして』は、いわゆる「日本的叙情」の世界に収まらない従来どおりの詩精神に溢れながら、より自由な世界を求めているように感じられます。
在日へ吹く隙間風に交わらぬ韓流ドラマ見ているそれでも
この国に生まれて再入国許可書要る一体わたし入国したの?
唐突に共生移民外国人など歴史認識もてないニホンに
移民から知事を生み出すアメリカの夢は太平洋を越えることなし
(――『沙果、林檎そして』より。以下同)
韓流ブームに沸きたつ一方で朝鮮植民地支配の歴史には関心を示さない大多数の日本人。しかも、戦後すぐに始まった在日外国人に対する諸政策は、実質的に植民地主義を継続し、現在に続く差別の歴史を重ねてきました。
戦後65年経つにもかかわらず、いまだ地方参政権さえ許さない国。「チョーセン人チョーセンへ還れ」の言葉は、いまなお日本の街中に響き、その声は大きさを増してさえいます。
新たな来日外国人の増加など、日本社会の大きな変化も詠みこみつつ、牢固として変わらない日本の状況を、李さんは歌で問いかけます。
湖に漣 たつはみじかすぎるキミの一生 のパンソリなりき
湖底には母のナミダの精霊壺沈めてキミが孵化するために
古書店にキミが求めたエッセイ集 鷺沢萌はチョゴリ姿で
本書には最愛の息子さんをなくされた深い悲しみが底流に流れ、時に溢れ出て、読む者の胸を強くうちます。
デラシネに保証などなきふるさともなくて口ずさむ朝鮮の詩
綿雲のとどまるさきに絶望という名にひそむ希望やわらか
ただひとりの人とし歌を詠むほかになにもできないなにももたない
在日韓国人として、一人の生活者として日本に生きる「日常」を詠み続けてきた李正子さん。一人でも多くの方にその歌の世界にふれて頂きたいと願っています。
2010年11月 影書房 編集部
◆関連書◆
『歌集 彷徨夢幻』 李 正子(イ・チョンジャ) 著
『鳳仙花のうた』 李 正子(イ・チョンジャ) 著
『歌集 一族の墓』 金 夏日(キム・ハイル) 著
『尹東柱全詩集 空と風と星と詩』 尹 東柱 著/尹 一柱 編/伊吹郷 訳
『生命の詩人・尹東柱――『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』 多胡吉郎 著
『#鶴橋安寧―アンチ・ヘイト・クロニクル』 李信恵 著
『日本型ヘイトスピーチとは何か』 梁英聖 著
『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』
LAZAK(在日コリアン弁護士協会) 編、板垣竜太、木村草太 ほか著