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❖jacket photo : by セバスチャン・サルガド
“Marine iguana”(Amblyrhynchus cristatus).
Galāpagos. Ecuador 2004
©Sebastiāo Salgado-Amazonas Images
〔旧版〕
★「そして全て死に果てればいい。」
目取真 俊 著
虹の鳥 〔新装版〕
2017年5月刊(新装版)
(旧版:2006年6月刊)
四六判並製 220頁
定価 1800円+税
ISBN978-4-87714-471-5 C0093
●目次
●書評
●関連書
「そして全て死に果てればいい。」
――基地の島に連なる憎しみと暴力。
それはいつか奴らに向かうだろう。
その姿を目にできれば全てが変わるという幻の虹の鳥を求め、夜の森へ疾走する二人。
鋭い鳥の声が今、オキナワの闇を引き裂く――
救い無き現実の極限を描き衝撃を与えた傑作長篇。
〈著者略歴〉
目取真 俊(めどるま しゅん)
1960年 沖縄県今帰仁(なきじん)村生まれ。
琉球大学法文学部卒。
1983年「魚群記」で第11回琉球新報短編小説賞受賞。
1986年「平和通りと名付けられた街を歩いて」で第12回新沖縄文学賞受賞。
1997年「水滴」で第117回芥川賞受賞。
2000年「魂込め(まぶいぐみ)」で第4回木山捷平文学賞、第26回川端康成文学賞受賞。
【著書】(小説):『目取真俊短篇小説選集 全3巻』『眼の奥の森』『虹の鳥』『平和通りと名付けられた街を歩いて』(以上、影書房)、『風音』(リトルモア)、『群蝶の木』『魂込め』(以上、朝日新聞社)、『水滴』(文藝春秋)ほか。 小説の他に時事評論集『沖縄「戦後」ゼロ年』(日本放送出版協会)、『沖縄 地を読む 時を見る』『沖縄/草の声・根の意志』(以上、世織書房)ほか。 新聞や雑誌にエッセイ・評論などを発表。
ブログ:「海鳴りの島から」 http://blog.goo.ne.jp/awamori777
(本書刊行時点)
◆『虹の鳥』 ◆目次◆
(目次はありません)
書 評
◆『朝日新聞』 2019年6月22日(部分)
評者:上間陽子(琉球大学)
◆『図書新聞』 2018年1月20日
評者=中村隆之(フランス文学・カリブ海文学研究)
◆『毎日新聞』 2017年8月13日
評者=池澤夏樹(作家)
◆『毎日新聞』 2006年10月29日
日・米・沖縄をめぐる悲惨の切実な隠喩
評者=三浦雅士(文芸評論家)
強靱(きょうじん)な批評精神に貫かれた瞠目(どうもく)すべき小説である。
「公衆電話から出ると道路を横断し、マユは車にまっすぐ歩いてきて助手席に乗り込んだ。
『N公園の門の前』
小さな声でそう言って、シートをリクライニングにし目を閉じる。約束時間を確認しようと腕に触れると、窓のほうに身をよじって胸の前で腕を組んだ。二の腕に鳥肌が立ち、産毛に日の光が弾かれる。カツヤは自分の体に嫌な臭いが染み込んでいるような気がした。」
冒頭の描写がいきなり事件のさなかに連れ込む。物語はこのカツヤの視点から描かれてゆく。「十七歳という年齢より」ずっと幼く見えるマユが車を降りて約束の場所に立ち、そこへもう一台の車が近づき、男が降りる。カツヤはカメラを構えマユと男を撮る。マユは車に乗り、カツヤの車が追う。
カツヤはマユに売春させ、写真をタネに強請(ゆす)ろうとしている。だが、そのカツヤも駒にすぎない。背後に比嘉という男がいて、カツヤは比嘉からマユというクスリ漬けにされた少女を預かっているだけなのだ。カツヤは売春代と写真を届け、強請りを手伝う。二十一歳のカツヤは二歳年長の比嘉に怯(おび)えきっている。
カツヤが比嘉の手下にさせられたのは中学時代で、上納金を納めさせる比嘉の組織は教師をも怯えさせていた。比嘉の常軌を逸した暴力性がカツヤの恐怖感を通して生々しく描かれる。
かわいくて成績もよかったマユが中学三年のときにイジメとリンチにあい、そのまま比嘉の餌食にされるようになった経緯も、読むのが苦しいほど生々しい。テレクラを使って小遣い銭を稼いでいる不良グループを始末する比嘉のあくどさは不気味なほどだ。
物語が進むにつれ、マユとカツヤと比嘉の生きている現在が、その数日前に「小学生の少女が、三人の米兵に車で拉致され暴行を受けた」沖縄であることが示されてゆく。カツヤの父が資産家で高額の軍用地料を得ていること、その父が愛人に子を作らせ、怒った母が父にスナックを経営する資金を出させたことなども語られてゆく。
沖縄の現実が描かれているとはいえ、比嘉がカツヤを使ってマユに売春させているという現実とは交差しない。カツヤは事件に「全身の血が泡立つような」怒りを覚え、比嘉でさえ、「米兵の子どもをさらって、裸にして、五八号線のヤシの木に針金で吊してやればいい」と口走る。だが、何万人もの抗議集会が開かれている沖縄の現実と、少女売春を強請りのタネにしている比嘉やカツヤの現実は平行線を描いたままだ。米軍基地が比嘉という悪を生み出したわけではない。比嘉のような存在は日本中いや世界中どこにでもいると思わせる。
比嘉に一撃を加えるのは、衰弱しきったマユである。カツヤはマユに哀れを覚え、比嘉にいくつかの事実を報告しなかった。そのことがバレて、マユともどもリンチされる。浴室でカツヤをリンチしている比嘉にシンナーを浴びせ火をつけたのはマユだった。マユは同時に、比嘉の手下二人をも殺していた。カツヤはマユを連れてヤンバルの森へ逃げようとする。
カツヤは食料を買うためにマクドナルドに立ち寄るが、そこにアメリカ人の子供連れの夫婦がいた。車に戻ったカツヤは不安にかられ後部座席に坐ったマユを見る。マユの膝にはアメリカ人の少女が横たわり、血がシートに垂れていた。マユは比嘉のみならず、米軍基地にも一撃を加えていたのだ。
「『さっさと出せよ、クズ』
低く強い声だった。初めてマユの本当の声を聞いたような気がした。カツヤは正面に向き直ると、エンジンをかけ、ギアを入れてアクセルを踏んだ。アメリカ人の夫婦が立ち上がって少女の名前を呼んでいる。遊び場から駐車場に出てくる二人の姿を横目で見ながら、五八号線に車を出した。」
物語は、カツヤが、マユの背に彫られた鳥の刺青(いれずみ)が飛び立つ幻想を見ながら、アクセルを強く踏み込む場面で終わる。いまやカツヤの高揚した心に訪れるのは「全て死に果てればいい」という思いだけだった。
マユという一点で、陰惨な少女売春と米軍基地を重ね合わせるために、作者は読むのが苦痛なほどの暴力を描きつづけたのだろうか。
そうではない。読み終えてほっと息をつき、間を置いてはじめて、比嘉がアメリカの、カツヤが日本の、マユが沖縄の隠喩(いんゆ)、それもじつに切実な隠喩であることに気づき、愕然(がくぜん)とするのである。冒頭の描写が新たに甦る。
比嘉がカツヤを使ってマユに売春させているという物語はそのまま、アメリカが日本を使って沖縄に売春させているという現状認識を示す。そしてこの認識は、比嘉が口走る「米兵の子どもを吊してやればいい」という台詞(せりふ)を、九・一一に際してアメリカ大統領が口走った「フセインを潰(つぶ)してやる」という台詞に重ねさせずにおかない。
マユが最後に振るう暴力もまた意味深長というほかない。
◆『週刊読書人』 2006年9月1日
現実と神話の激しい交錯
評者=柘植光彦(文芸評論家)
目取真俊氏の作品からは、沖縄の作家としての方法的な達成を見ることができる。それはまさに他の追随を許さない「目取真俊」の世界だ。
沖縄の社会的な背景をリアルに描き、それをファンタスティックな強いイメージで支える――そうした目取真俊氏の方法は、最新作の「虹の鳥」にもみごとに実現されている。
作品に描かれる現実的な社会問題は、沖縄を支配するさまざまな暴力、特に少女たちへのレイプだ。この少女たちへのレイプが作品のキーワードになり、虹色の羽根をもつ鳥というファンタジーにつながっていく。そして一つの復讐の神話へと結実する。
三人の米軍兵士による小学生の少女へのレイプという、実際に起こった事件が、全編を支配する大文字のレイプであるとするなら、主人公の周辺で起こる小さなレイプ事件は、いわば小文字のレイプだといえる。しかしそれらは隠されたレイプであるだけに、いっそうむごく、痛々しい。
21歳の主人公カツヤは、中学校時代に不良グループに痛めつけられ、現在もその配下としてこき使われている。ヤクザになった先輩たちから、薬漬けになった女たちを預かって売春させ、相手の男の写真を撮って先輩たちに渡す。写真はゆすりの材料として使われるのだ。
カツヤの三歳上の姉は、小学生のときに、カツヤの目の前で、金髪の米兵にレイプされた。カツヤの先輩の番長格の少年は、中学校の生徒指導の教師の3歳の娘を中指でレイプした。また今では、彼らの了解なしに援助交際をしていた中学生の少女2人をレイプするなど、暴力やレイプを日常化させている。
カツヤが今自分の部屋に預かって売春させているは、マユという名の17歳の少女だ。マユは小柄でやせていて、中学生にしか見えない。その背中には、虹色の羽根をもつ鳥の入れ墨がある。マユは薬で衰弱していておとなしいのだが、一度だけ客に激しい暴力を振るった。その客が自分の中学校の教師だったからだ。マユは中学生の時に、友人たちから屈辱的な暴行を受けていたのだ。
カツヤは昔学校で、虹の鳥の話を聞かされた。米軍の演習地であるヤンバルの森には虹色の羽根をもつ鳥がいて、それを見た兵士は死なないが、その部隊は全滅してしまう、という話だ。
物語は、虹の鳥の入れ墨をもつマユが、あたかもひとりの女神であるかのように、カツヤを救済し、そして米軍に復讐するという、神話的な方向に発展する。マユは、カツヤに暴力を振るう2人のヤクザを殺し、さらに、米兵の娘である5歳くらいの少女をカッターナイフで殺してしまうのだ。
マユは、自分に親切だったカツヤをヤクザから解放し、さらに、すべての沖縄人の代理としてアメリカに報復したことになる。こうして一つの壮大なロマンが完結していく。
現実と神話の激しい交錯、それはまさに「目取真俊の世界」なのだが、この作品の暴力の描写、性の描写は、叩きつけるように激しく、なまなましく、しかも的確だ。米軍という強大な暴力機構に徹底して押さえ込まれている沖縄の現実が、沖縄人による沖縄人への暴力という下位の暴力やレイプを描くことで、さらに具体的に把握できる。
「小説」というメディアの力強さを感じる。このような小説が書かれる限り、小説は不滅だ。
◆『中国新聞』 2006年8月27日
暴力の連鎖からの逃避行
評者=与那覇恵子(日本近代文学・東洋英和女学院大学教授)
「癒しの島」とはまったく対極にある陰惨な暴力に満ちた沖縄が、ここにはある。
21歳のカツヤと17歳のマユ。中学時代から教師や大人を震撼させてきた比嘉は、2人を徹底的に痛めつけることで、自己の支配下に置いてきた。カツヤは恐怖と自己保身から精神的に比嘉に縛られてもいるが、その冷徹な力に引かれてもいる。
小さくて中学生にしか見えないマユだが、性的虐待を受け、薬漬けにされ、売春させられている。精神も肉体も既に壊れているように見えながら、時々鋭いまなざしを宿す。屈服しない精神というようなものが彼女を生きながらえさせてきたのであろう。背中に彫られた極彩色の鳥の頭はたばこの火を何度も押し付けられ、こぶになっている。それは繰り返された暴力の痕跡を物語る。
ベトナム戦争のころ、ヤンバルの森にすむ「虹の鳥」伝説が、米兵の間で語られていた。その鳥を見ることができれば、「どんな激しい戦場に身を置いても、必ず生きて還ることができる」という。しかし生き残るのは一人、部隊は全滅。見た者が語ればその奇跡も消える。カツヤはマユの背中にその鳥の羽ばたきを幻視する。
容易ならざる構造的な力に囲繞されてきた沖縄という島。作者は1995年に起きた米兵による「少女暴行事件」と交差させ、むしばまれ、ゆがんできた沖縄の人々の精神を冷めた筆致で描く。「事件」に異議申し立てするデモや集会の模様は、無意味な行動として語られ、無意味さを反転するには「米兵の子どもをさらってヤシの木に吊るしてやればいい」という暗い情念が発露する。
マユは突然目覚めたかのように自分を買った男を襲い、比嘉を殺し、幼い米国人の少女をナイフで刺す。繭が「テロリスト」として孵ったかのように。だがカツヤはマユを連れ、「幻の鳥」を求めて逃避行を続ける。
テロリズムに向かうのでもなく、幻想でおおい隠すのでもない、力の構造を断ち切るもう一つの道が、読者に問われている。
◆『北海道新聞』 2006年8月27
基地の暴力 若者の絶望
評者=佐藤 泉(日本近代文学・青山学院大学教授)
主人公は街の少女をクスリ漬けにして客を取らせ、その客を脅かし、自分もグループのボスに脅かされながら暮らす沖縄の若者である。全編絶望的な暴力が連なるこの小説は、掛け値なく近年の日本語による小説のピークだが、それは暴力描写の迫力ゆえにでなく、絶望と暴力とが醸成される構造が作品に埋め込まれているためだ。
1995年、米兵が3人がかりで小学生を砂浜に押しつけて暴行し、これに対する抗議集会に8万人余の沖縄人が集まった。「虹の鳥」の舞台はこの年に設定されている。つまり不良たちが陰惨なリンチを行っているホテルの一室の、そのテレビ画面に抗議集会の様子が映る、という具合に小説空間が構成されているのだ。まず理不尽な基地暴力があり、一方には集会でのまっとうな抗議行動、他方には若者の絶望が配置される。彼らの怒りはブーメランのように戻ってきて、自分と仲間に向かって内攻する。
集会に8万人が集まってもなに一つ変えられない、必要なのは徹底的に醜いことだという言葉は、議論が分かれる所だろう。この小説は子どもを殺せというのである。だが、そうしたぎりぎりの議論がありえてしまう場だからこそ、文学や思想の力が痛切に必要とされるのだろう。その緊張感に支えられている限りで、目取真俊をはじめとする沖縄のいく人かの表現者は、必然のように傑作を生み出している。
子どもを殺せ、未來を殺せというのは、おそらくこの10年の間にあり得たはずの可能性が次々と扼殺され、破られるための約束ばかりが交わされた沖縄の経験が噴出した声として受けとめるべきだ。この物語にあっては、生きる意欲もなくしたような少女の暴力がもっともすさまじく、そして鮮烈である。彼女もほんの少し何かが違っていたら今とは違う世界にいたはずだ。かつて思い描いていた未來が消えたあとの地点に「今」がある。そのことが読む者の胸を刺す。
◆『西日本新聞』 2006年8月13日
無自覚日本人炙り出す
評者=吉田敏浩(ジャーナリスト)
物語の舞台は沖縄で、暴力団の末端の配下にいる21歳のカツヤは、預けられたクスリ漬けの女に売春をさせ、相手の男を盗撮している。ゆすりのネタにするためだが、恐喝をして甘い汁を吸うのは元締めの比嘉だ。カツヤは中学時代に比嘉の率いる不良集団に引きずり込まれて以来、冷酷な比嘉の暴力と恐怖の支配下にあった。定職にもつかず、極道にもなりきれない自嘲と閉塞感に覆われた毎日。しかし、背中に虹色の鳥の刺青をした17歳のマユを預けられてから、自らを取り巻く状況に亀裂が生じる。ものに憑かれたようなマユの衝動的行為から、2人の生は血の匂いを放ちながら終極に向かって加速する。
リンチや性的暴行の執拗な暴力シーンがあるが、目を凝らせば、それは基地の島オキナワを覆う巨大な暴力の投影だとわかる。軍事力と金の力と権力による構造的な暴力の投影。物語の時期は1995年の米兵による少女暴行事件の直後だ。カツヤは姉が少女時代に米兵に暴行されるのを目撃し、為す術もなく立ち竦んだ記憶に苛まれる。「米兵に沖縄の少女がやられたんなら、同じようにやり返したらいい。そう考えて実行する奴が50年の間一人もいなかったのか」と憎しみを抱くカツヤだが、軍用地料で潤う家庭に育ち、自立できず、比嘉の言いなりになるしかない自分への嫌悪と無力感にとらわれている。痛みと屈折を強いられる沖縄人の多面的な自画像がそこに刻まれている。
カツヤの目の前で比嘉と暴力団員がビリヤードをする場面がある。日米両国家の構造的な暴力による沖縄支配の現実を連想させられる。その圧倒的な力で突かれた「球」がぶつかり合うとき、呻き声が洩れ、血や涙が流れる。だが、「球」はただ突かれ、黒い穴に吸い込まれ続けるばかりなのだろうか。いつか傷だらけの「球」が牙をむき、突き手に向かって奔騰することはないのか。物語の終幕、或る答えが戦慄とともに浮上する。そして「ビリヤード」の観客、いや「球」を突く棒に無自覚なまま手を添えている日本人の姿も炙り出されるだろう。
◆『日本経済新聞』 2006年8月6日
圧縮され、連鎖する「暴力の島」
評者=川村 湊(文芸評論家、法政大学教員)
この小説のなかでもっとも謎めいているのが、比嘉という男である。作中でも彼はほとんど口をきかない、こんな一言以外には。「吊るしてやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、58号線のヤシの木に針金で吊るしてやればいい」、そしてもう一言、「本気で米軍を叩き出そうと思うんならな」と。
圧倒的で、絶対的な「暴力」の下で過ごさねばならなかったら、人間はどうなるだろうか。カツヤとマユという主人公の二人は、中学生という時期に、周囲から圧倒的な暴力を受けざるをえなかった。
カツヤは、女を使って男たちを恐喝する比嘉の仕事を手伝っている。彼は、他者へためらいなく暴力を振るう。マユは、クスリと暴力によって廃人同様とされてしまい、最後には、突発的に他者を殺傷するような人間となった。
暴力は連鎖する。憎悪は憎悪だけしか生み出さず、暴力は暴力によって報復される。しかし、圧倒的で、あまりにも非対称的な暴力の場合、それに向けられる暴力は、幻想という回路を通じてしか発揮されないのだ。
小説のラスト近く、マユによって焼殺される比嘉が、どんな暴力的な環境の下に生まれ育ってきたかは、作品内では明らかにされていない。しかし、前掲の彼の言葉からわかるように、その暴力の根元にあるのが、沖縄という、圧縮され、連鎖する「暴力の島(=基地の島)」という状況であることは間違いない。
どこかでこの暴力の連鎖を絶とうとすれば、暴力のヒエラルキーの最下層から、最上層へと向けられる抵抗的暴力であり、しかもそれは、絶望的なまでに叶えられることはないのだ。
ヤンバルの森のなかへ"青い鳥"ならぬ"虹の鳥"を探しに入り込むカツヤとマユ。それはまた、比嘉の言葉に支配された二人の道行なのである。だが、はたしてそれは圧倒的な「暴力」を超えるための唯一の方法なのだろうか。二人が踏み迷った森の闇のなかに、虹の鳥はまだ見えてこない。
◆『文学界』 2006年9月号
暴力と憎しみで沖縄の現実を描く
評者=奥野修司(ジャーナリスト・ノンフィクション作家)
全編に暴力が満ちている。沖縄の北部に「ヤンバルの森」と呼ばれる深い森があるが、物語はヤンバルの森よりも深い闇につつまれている。読んでしばらく、胃の淵に小石を詰め込まれたような疲労感に襲われた。
物語は凄惨な場面から始まる。裸の男の脇腹を足で蹴り上げ、背中をベルトで打ちつけ、熱湯を浴びせる。とりわけ尿道にマッチの軸をいれていくおぞましいリンチのシーンに、私の思考と感覚がついていけない。思わず本を閉じていた。
作者はこれまで『水滴』『魂込め』『群蝶の木』などを発表しているが、これらの作品に共通するのは沖縄戦とその後である。作者にとって沖縄戦は人生のテーマであり、米軍基地はその沖縄戦と今も深く繋がっているからだと、『沖縄「戦後」ゼロ年』で読んだ記憶がある。もちろんこの作品にも米軍基地が随所に登場するが、ここではそれを暴力と憎しみによって描こうとしている。
主人公はカツヤとマユの男女。カツヤは、暴力団の幹部を叔父に持つ比嘉の下で働いている。比嘉は顔色一つ変えずに女の生爪を剥ぎ取るような暴力そのものだ。
比嘉との関係は中学時代以来で、カツヤの入学した中学は上級生の比嘉に支配されていた。誰も比嘉には立ち向かえない。暴力は人間を変えることもあるが、比嘉のグループから徹底して暴力をふるわれたカツヤは、やがて精神まで比嘉に組み伏せられていく。
カツヤの父親は軍用地料をもらって生活するコザの資産家だが、愛人のマンションに入り浸りである。母親も開店させたスナックを軌道に乗せるのに必死でどちらも息子に無関心。助けてくれと心の裡で叫ぶカツヤの声は、彼らの耳に届かない。
比嘉は多くの少女を薬漬けにし、売春させては相手の写真を撮り、それをネタに脅かしていた。高校を中退したカツヤは、比嘉の手足となって働くが、彼の役目は少女を預かって世話し、脅迫用の現場写真を撮ることだ、あるとき体重30キロ台半ばの、衰弱の激しい少女を渡される。マユというその少女は、過去に凄惨なリンチを加えられ、そのときの写真をネタに脅かされて売春をさせられていた。
カツヤは逃亡願望を抱きながら、比嘉の「底のない空虚」を見ると身動きがとれない。カツヤもマユも、比嘉から太いクギを打ち込まれたように、どこにも逃げ出せないことでは似たもの同士なのだ。
行間に絶望感が漂っている。それはカツヤと比嘉の関係だけではない。
おそらく95年の由美子ちゃん事件を題材にしたと思われる小学生のレイプ殺人事件が物語の背景を占めているが、読むうちに、この事件が表層のストーリーと交差し、米軍基地と米兵の存在を途方もない大きさに浮かびあがらせる。
米軍基地、装甲車、機動隊、デモ隊が物語全体を覆いつくしている。沖縄は基地という暴力で蹂躙され、少女のようにいつレイプされるともしれない予感――。それゆえにカツヤと比嘉の関係が、沖縄とアメリカ(日本政府)の関係のメタファーとして映る。
比嘉の言いなりになっているカツヤは、姉が口にした言葉を反芻する。
「世の中は変わるよ。自分の力で生きなさいよ。あんたならできるさ。」
基地がなければ生きていけないという沖縄人に、いいかげん基地なんかに頼るなと叫んでいるようにも聞こえる。しかしカツヤはつぶやく。「何も変わらんさ」と。これが沖縄の現実かもしれない。
マユの背中には美しい鳥の刺青がある。ヤンバルノ森で特殊訓練を重ねる米兵たちの間では「虹の鳥」伝説があるという。「森の中でその鳥を見ることができたら、どんな激しい戦場に身を置いても、必ず生きて還ることができる」と。そのかわり他の仲間は全滅するという。カツヤの中で、マユの背中に彫られた鳥と虹の鳥が重なる。
マユの衰弱は激しくなり、もう客をとれないと思った比嘉は、彼女をラブホテルに連れ出して猥褻ビデオを撮る。その撮影にカツヤも呼ばれ、なぜか浴槽で比嘉からリンチを受ける。そこへ突然マユがシンナーを持ってあらわれ、比嘉の全身に浴びせて焼き殺す。暴力の連鎖が断ち切れた瞬間である。そのときカツヤは、マユの背中から虹の鳥が飛ぶ幻想を見、マユをつれて虹の鳥がいるといわれるヤンバルの森へ向かう。
注目すべきは、カツヤを縛りつけてきた比嘉が、テレビでレイプ事件の抗議集会を見ながら吐いた言葉だ。58号線を北上していたカツヤに、それが蘇ってくる。
「吊るしてやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、58号線のヤシの木に針金で吊るしてやればいい」「本気で米軍を叩き出そうと思うんならな」
米兵に沖縄の少女がやられたのなら、同じようにやりかえせばいい。そう思いつつ、この半世紀に実行する者が誰一人としていなかった。カツヤは、一体でもいいからそれを目にできたらと思うだけで、彼も実行できない。しかしマユは、立ち寄ったマクドナルドで、それを現実にしてしまう――。
作者は「行動する作家」といわれる。普天間飛行場の辺野古移設問題でも抗議行動を起こし、名護市長選挙でも移設反対を訴えた候補を積極的に応援したが、二転三転しながらも、結果的に名護市は金と引き替えに移設を受け入れた。本書を書いたのが2004年だから、そのことを予測しえたわけではないだろう。しかし基地への憎しみを充満させながらも、結果的に米軍と日本政府の意向通りになってしまうのはいつものことだ。
だからいまだに基地=暴力の呪縛の中にあるともいえる。この連鎖を断ち切るのは、暴力でしかないのかもしれない。が、沖縄人が体を張って抗議行動を起こしたのは70年のコザ暴動だけだ。彼らは怒りはしても、決してある一線をこえない。島に憎しみが満ちあふれながら、「声を上げて歩いていくだけなのか」とデモ隊を小馬鹿にするカツヤは、作者の苛立ちを代弁しているようだ。
カツヤは「自分の陥っている窮状」を突破するため、すべてを変えるという「虹の鳥」に期待するが、それはとりもなおさず、カツヤ=沖縄がかかえる絶望の深さを映す。「沖縄ブーム」に浮かれるだけでなく、この現実こそ見据えてほしいという作者の叫びが聞こえてくるようだ。
◆『新文化』 2006年7月13日
美しい海と眩しい太陽、温かい人情の島、沖縄には、底知れない闇もまた潜む。戦争や米軍基地に連なるその闇を描く、沖縄出身の作家、目取真俊。本書はその最新作で、息つく暇もなく読ませる長編小説だ。
中学生の上級生、比嘉に魅入られるように彼の属する暴力団に加わり、下っ端でこき使われる主人公、カツヤ。比嘉から売春・恐喝の道具としてクスリ漬けの少女マユを預けられ、その日から何かが変っていく。マユの背中に彫られた虹色の鳥は彼に、少年時代に憧れ、その姿を見た者はただひとり生き延びるという幻の虹の鳥を彷彿とさせた。凄まじい暴力と荒んだ心の連鎖の果てに、二人は幻の鳥が棲むというヤンバルの森へ。そして物語は衝撃的な結末を迎える。
1995年に起きた米兵による少女暴行事件を背景とし、青春小説、サスペンス、ファンタジーなどの要素を併せ持つ本書は、告発の書でありながら同時にすぐれたエンタテインメントでもある稀有な作品。