★ジャーナリスト出身の元広島市長が「核の時代」を問う
平岡 敬著
時代と記憶
――メディア・朝鮮・ヒロシマ
2011年3月刊
四六判上製331頁
定価 2500円+税
ISBN978-4-87714-415-9
●目次
●書評
●関連書
「記憶は過去と未来の接点である」(1995年、広島市長時代の「平和宣言」より)
核の時代をいかに生きるか。国家の枠を超えた平和の思想とは何か。日本は戦争責任といかに向き合い、歴史から何を学ぶべきか――。
中國新聞社編集局長、中国放送社長などを経て1991年に広島市長へ。そして「8・6広島平和宣言」において、被爆地の市長として初めて日本のアジアへの加害責任に言及するなど、志操を貫いた著者が、「3・11」の衝撃も踏まえ、原点・ヒロシマから問い続けた半世紀に及ぶ思考・論考を集成。
〈著者略歴〉
平岡 敬(ひらおか・たかし)
1927年、大阪市生まれ。広島県出身。
早稲田大学第一文学部卒業後、1952年、中國新聞社入社。同社編集局長、中国放送社長などを経て、1991年より広島市長を2期8年務める。
記者時代から被爆韓国・朝鮮人の支援活動などを行い、市長になってからも被爆者への援護を訴え続けた。95年には、オランダ・ハーグの国際司法裁判所で、核廃絶に消極的な日本政府の方針に抗して、核兵器の国際法上の違法性を強く訴え、世界の人々の反響を呼んだ。96年の「原爆ドーム」の世界遺産登録にも尽力した。
現在、中国・地域づくり交流会会長。旧ソ連の核実験による被曝者の救援活動やカンボジアに「ひろしまハウス」を建設するなど、NGO活動を精力的に続けている。
著書に『偏見と差別』(未來社)、『無援の海峡』(影書房)、『希望のヒロシマ』(岩波新書)などがある。
(本書刊行時点)
書 評
●『図書新聞』 2011.9.17
ヒロシマの思想を問い続けた長年の思索の集成
――被爆朝鮮人の問題から出発し、核廃絶の世界化を求める
評者=米田綱路(本紙編集)
ヒロシマの思想を語る人たちがいる。平岡敬氏もその一人だ。地元紙・中国新聞の編集局長、中国放送社長などを歴任し、1991年から広島市長を二期務めた。彼は91年8月6日の平和記念式典で、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」と、市長として初めて日本の加害行為を謝罪した。
そのときの平岡氏の平和宣言を想起しながら、以前に彼が書いた「罪責感のないところに反戦思想は生まれない。被害者意識から生まれるのは厭戦思想だけである」(『偏見と差別――ヒロシマそして被爆朝鮮人』未來社、1972年)を思い出した。彼は記者時代から被爆朝鮮人の取材と支援を続け、その活動をとおしてヒロシマが広島市民だけの、「唯一の被爆国」の日本人が体験した被害ではなく、被爆朝鮮人の体験でもあったことを知っていた。
日本という枠を超えてヒロシマを世界化するためには、なによりも被爆朝鮮人の援護と連帯が課題だった。それゆえ日本の戦争責任問題を避けてとおることができない。平岡氏の平和宣言には、被爆体験が加害責任をいわば“相殺”してしまったことへの、戦後日本人の無自覚を問いたいという意図が込められていたように思う。
あれから20年、いま平岡氏の新著『時代と記憶』を読むと、被爆朝鮮人の人権回復が日本人被爆者の人権を守ることにつながる、すなわち日本人被爆者が同時に植民地支配の加害者でもあるという関係を凝視することから、新しいヒロシマの思想を生み出したいという願いがひしひしと伝わってくる。本書は長期間にわたって書き継がれてきた文章の集成だが、日本人が世界平和を訴えるためには、植民地支配と被爆という二重被害を体験した被爆朝鮮人の問題から始めなければならないとの、著者の一貫した姿勢を見ることができる。
「私のいう“ヒロシマ”の意味は、ただ単に原爆被害のことだけでなく、戦争を起こす政治・経済・社会の矛盾や弱者同士の対立や反目に見られる人間の醜さといったものをも内包している」と平岡氏は述べる。ヒロシマは長い間、被爆体験や「被爆者の感情」といったナイーヴな側面に寄りかかり、言論や表現を封じ込め、真に統一的な大衆運動を組織する理論をつくってこなかった。「この思想の貧困と公論の閉塞は、被爆建物や被爆樹木や折りヅルの永久保存といったフェティシズム的傾向をもたらす」とも彼はいう。
被爆建物の保存や千羽鶴を折ることが平和の願いとして自己目的化すれば、ますます広島の神聖化が促進され、ヒロシマの思想がやせ細るという悪循環に陥った。平岡氏が指摘し続けてきたヒロシマの思想の弱さとは、戦後日本の平和主義の弱さでもあった。核時代のもとでは一国平和主義は大いなる幻想だったが、日米安保体制という軍事同盟と米軍の核の傘がそれを一定程度可能にしてきた。広島の平和記念式典に見られるとおり、日米安保体制の堅持を言いながら、平和と非戦への願いを口にする首相の姿を、私たちは戦後一貫して見続けてきた。にもかかわらず、そこに矛盾を感じないできたところに、日本人の一国平和意識の強固さと、それを世界化することの弱さがあった。
本書にあるように、1948年8月6日、ヒロシマ平和祭の式典に出席した英連邦軍総司令官のロバートソン中将は、「広島が受けた懲罰は戦争遂行上の途上、受くべき日本全体への報復の一部とみなされねばなりません」とあいさつした。つまり、連合国側は、原爆投下を日本に対する処罰と考えていた。それに対して、人類史上未曽有の大量虐殺である原爆投下の犯罪性を主張する声は弱かった。日本の侵略戦争を止めるために原爆投下を行ったのだという「因果応報論」を前に、ナショナリズムを超えた人類的な視点で反論しにくい平和主義の問題がそこにあった。
「被害だけでなく加害の視点も合わせて、複眼で戦争や原爆問題を考える必要がある」と平岡氏は述べる。それには、被爆朝鮮人の人権回復に取り組み、植民地支配と戦争責任を明確化した上で、広島と長崎への原爆投下は国際法に違反し、間違っていたと主張することが必要である。もしも米国の主張どおり、原爆投下が正しい行為だったと認めるならば、平岡がいうとおり、この先も「戦争を早く終わらせ人道を救うため」に核兵器が使われることを容認することになる。
人類史上未曽有の無差別大量虐殺という原爆体験を思想化し、「唯一の被爆国」として国籍化するのではなく、ナショナリズムを越えて核廃絶の世界化を求める。核時代を生きる人類の希望はそこにしかなく、希望のためにこそヒロシマの思想が生きてくる。本書はその証である。
● 『中国新聞』 2011.7.31
志と思考のクロニクル
評者=西本雅実(平和メディアセンター編集部長)
「記憶は過去と未来の接点である」。本の帯には、著者が広島市長だった1995年8月6日の平和記念式典で発した平和宣言文の一言が使われている。その宣言文の前段ではこう呼び掛けていた。
「人間として連帯し(略)共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない」。国家の枠を超え未来に向けて行動する。日本の戦争責任も見つめて過去という歴史から学ぶ。今日まで半世紀に及ぶ論考を収めている。
被爆地に本社を置く中国新聞の記者となり、91年から広島市長を2期務めた。現在は内戦の傷痕が濃いカンボジアの子どもたちの支援にも取り組む。その折々に表した論考を「メディア」「朝鮮」「ヒロシマ」と分け、時代解説と、書き下ろした「『ヒロシマ再考』ノート」を添える。
とりわけ「朝鮮」をめぐる論考は熱い。日本が植民地支配した現在の韓国・北朝鮮で9歳から17歳までを過ごした。祖父や父が事業を手広く展開していた。だが、大日本帝国の敗戦と崩壊により身一つで広島へ戻る。
著者は「僕の考えの基層には朝鮮体験、引き揚げ体験がある」という。いわば加害者であり被害者でもあった体験から「国家とは何か。自分に何ができるのか」と考えるようになった。弱者を踏みつけにしない社会をつくる。そうした生き方を志した。
実際、日本と韓国が65年に国交を回復するといち早く訪れ、在韓被爆者への援護の必要性を論じる。治療のために密航してきた男性が求めた被爆者健康手帳交付の裁判を全面的に支え、最高裁で78年に勝ち取った。一連の論考は今も色あせない。歴史を見つめることは、どういうことなのかを熱く問い掛けてくる。
福島第一原発事故で核被害の甚大さがあらためてあらわになった後の刊行ながら、原子力の平和利用に期待した論考も収めた。理由を尋ねると「時流に流されていたことを偽りたくなかったから」と答えた。ヒロシマの表現者としての志と思考の軌跡が伝わるクロニクル(年代記)だ。
● 『朝日新聞・広島版』 2011.7.6
メディア → 衰えた権力監視
朝鮮半島 → 被爆問題解決を
原爆投下 → 罪と認めさせよ
元広島市長の平岡敬さん(83)の新著『時代と記憶――メディア・朝鮮・ヒロシマ』が発刊された。中国新聞記者時代に精魂を傾けた朝鮮半島の被爆者問題や、自らが直面したヒロシマの問題に関してつづった文章が約70本収録されている。
第一部では、通算38年間身を置いたマスメディアにかかわる文章を集めた。
「権力を監視するというジャーナリズムの使命を忘れ、取材能力の弱体化に気づかず、何よりも志が感じられないことが悲しい」(「衰弱する言論」)。批判精神の衰えを憂え、後輩たちに「なぜペンを持つのか」を自問するよう、繰り返し呼びかけている。
第二部は「朝鮮半島へのまなざし」。1965年から取材を重ねた在韓被曝者の実情に加え、平岡さんが敗戦まで暮らした朝鮮での記憶をたどる。日本の植民地支配がもたらした朝鮮半島の被爆者問題の解決なくして真の友好はありえないとする問いかけが重い。
第三部「原爆・平和をめぐって」では、平岡さんは「『ヒロシマ再考』ノート」を書き下ろした。「広島は被爆体験を訴えるだけで、国際政治を動かせなかった」と指摘。原爆を投下した米国の責任を不問にしてきたことを最大の要因に挙げた。「核兵器のない世界」実現には、原爆投下が人類に対する犯罪だったと米国に認めさせることが第一歩、と平岡さんは説く。
さらに「核兵器廃絶が平和運動の最終目的ではない」と平岡さん。核兵器さえなくなれば平和は実現できるのか。「豊かで、公正で、だれもが安心してくらせる真の民主主義社会」を目標に、世界の構造を変えるような平和思想をヒロシマは提示すべきだという。
あとがきでは、福島第一原発事故の衝撃をつづった。原発を必要悪と容認してきた自らの過ちを率直に認め、「自然と生命への畏敬(いけい)を取り戻す」ため、原発からの脱却を促している。(加戸靖史)
● 「出版ニュース」2011.8月中旬号
〈ヒロシマが生み出す平和の思想は戦争と対峙し、人々に希望と勇気を与え、人々に希望と勇気を与え、幸せな未来を確信させるものでなければならない。私たちが目ざすのは、豊かで、公正で、だれもが安心してくらせる真の民主主義社会の実現である。いまの状況を変える努力を伴わない核廃絶の訴えは単なる願望で終わってしまう〉
1927年生まれの著者は、戦後、新聞30年、放送8年とジャーナリスト生活を経て、91年より広島市長を2期務めた。本書は、約50年にわたる文章を集めたもので、メディアの世界、朝鮮半島への眼差し、原爆・平和をめぐっての憤りと想いが込められている。なかでも、韓国の被爆者と朝鮮体験を通じて、被害としての「ヒロシマ」ではなく、加害者・戦争責任の視点から反核運動の課題を説く。著者は最後に、福島原発事故に触れて「核と人間」の問題を根本的に問い直すべきと自戒を込めて結ぶ。その提起は過去の論考を含めて示唆に富む。
● 『週刊読書人』 2011.8.26
広島の中に幾重にも重なる課題 本書を通して改めて考える手掛かりに
評者=イトウソノミ(映像作家)
著者の平岡敬氏は1991年から2期8年にわたって広島市長を務めた人物である。しかし私が最初に氏を知ったのは在韓被爆者に関わる著書を通じてであった。私は広島と朝鮮半島のつながりを映像で残しておきたいと思い、2002年から在韓被爆者などの証言を作品としてまとめながら在韓被爆者の支援活動に関わっている。その過程で氏が新聞記者時代に執筆したものをまとめた「偏見と差別」(1972年)「無援の海峡」(1983年)と出会った。
新刊は新聞社時代から現在に至るまでに執筆した文章をまとめたものだ。それらの文章は新聞やマスコミの社報、雑誌、また広島県日韓親善協会会報、在韓被爆者渡日治療広島委員会ニュースといった団体の機関紙等に掲載されたものである。「生きてきた軌跡をたどる手だてとして、いろいろなところに書いた文章を集めて整理してみた」という本書は、氏の思想史とも受け取ることができる。
本書は「メディアの世界で」「朝鮮半島へのまなざし」「原爆・平和をめぐって」の三部構成になっており、1961年からほぼ年代順に並んでいるため、時代の空気と共に読むことができた。残念だったのは氏がその時どんな肩書、どんな立場で書いていたのかが分かりにくかったことだ。氏は記者であり、政治家であり、在韓被爆者支援の活動家でもあったため、それぞれの文章が発表時に持っていた意味も違ってくるのではないかと思うからだ。
2000年から広島に住む私が日々の活動から感じていることは、広島出身であるかどうかに関わらず “広島に住む者がヒロシマを語ることの大変さ” だ。氏の表現を使わせていただくと広島が「神聖化」されているため、時に被爆者が特別な存在になってしまうことがあるからだ。被爆者自身によるものも含めて平和運動や平和教育の長い歴史があり、常に被爆地ヒロシマに住む者の発言は国内外から注目されてきた。意識するしないに関わらず広島に住む者が語る言葉は、他の地域の人から見ると全てが意味あるものになってしまうことがある。さらには過剰に意味が付与されることだってあるのだ。こうしたことは広島に住む者には見えにくい。
一方で、広島に住む者は言葉を発する時、被爆者の存在を意識せざるを得ないように感じる。広島に住む被爆者は大勢いるが、皆がみな声をあげているわけではないからだ。だからこそ声をあげた被爆者の思いは大切だし、尊重しなければいけない。見えない被爆者の思いを知る機会は限られている。家族ですら被爆体験を聞いたことがないという人は多いからだ。被爆者ではない者が言葉を発することの難しさがここにある。
こうした広島の中で、氏は特異な存在だと思う。氏は中四国最大の新聞社の編集局長、地元放送局の社長、広島市長として広島という地域社会の中で常にメインストリームに身を置いてきた。しかし、氏自身は被爆者ではなく、広島が故郷と述べつつも朝鮮半島で日本人の支配者層の子として青少年期を送っている。そうした外からの視点や立場を持ちつつ、広島の内側から、被爆者や被爆者をめぐる運動を無条件に肯定せず、「原水禁運動は『善』なる運動という前提があり、記者の目に甘さがあった。」と現在まで続くマスコミの姿勢を批判してきた。さらに、軍都廣島が持つ加害の歴史が多く語られていない時期から、在韓被爆者の存在を提示し続けるといったように、被爆地ヒロシマが内包する課題についてストレートに問い続けてきたのである。本書では、これまでの氏の発言の背景にあった、その時々の社会的な出来事や、氏に影響を与えたであろう人々との出会いについても知ることができる。
氏は世界のヒバクシャを追い続け核兵器の廃絶を訴えてきたが、長きにわたって「生活者として原発を必要悪と考え、容認」する立場であった。なぜならば「原発が生み出す電気を使いながら『反原発』を叫ぶことの矛盾が、『核の傘』の下で『核兵器廃絶』を訴える欺瞞と通じているような気がしていたから」だ。しかし本書の“おわりに”で、福島の事故によって「放射性物質の人類に対する脅威に関して、軍事、平和利用の区別は意味がない」と問い直している。氏の“自分史”は広島の中にも幾重にも重なる課題を映し出しているようにも思える。本書を通して平岡氏の思想や活動の足取りを追うことは、平和や核をめぐる課題を改めて考える一つの手掛かりになるかもしれない。
● 『長崎新聞』 2011.8.7
元中国新聞記者で広島市長を2期務めた著者の「自分史」である。といっても人生をつらつらと書き連ねているわけではない。著者がこれまで各媒体に書いた記事、評論、コラムなどを表題にあるテーマ別にまとめたもので、著者の思考の変遷をうかがい知ることができる。
少年時代を朝鮮半島で過ごした著者は大学卒業後、中国新聞社に入社。朝鮮人被爆者取材の草分け的存在となるが、そのルーツにはやはり少年時代の朝鮮体験があった。また新聞30年、放送8年と40年近くメディアに携わる中で、ジャーナリズムの衰退に危機感を覚え、警鐘を鳴らし続けてきた。
本書の最後では、旧ソ連の核実験場があったセミパラチンスクの取材体験から、福島第一原発事故による被ばくの影響を過小評価する政府に憤り、広島、長崎の経験がありながら「原発への道を選んだ私たちの責任は重い」とし、脱原発を訴える。政治の道を歩んだこともあったが、やはりジャーナリストなのである。(堂下康一)
● 『山形新聞』【時鐘】 2011.9.14
ヒロシマ再考
「かつて、原爆攻撃の責任を追及し米国の謝罪を求めるよりも、核兵器廃絶への努力を求めていく方が重要だと考えた時期があった。しかし、いま生き残った者が死者の思いをさしおいて、米国の免責を言うべきではないことに気づいてきた」
1990年代に2期広島市長を務めた平岡敬氏(83)は、今年出版した著書『時代と記憶――メディア・朝鮮・ヒロシマ』にこう記している。
「『ヒロシマ再考』ノート」と題した章で、被爆地の反核・平和運動の本質を問う平岡氏。被爆韓国・朝鮮人の支援活動にも取り組んだジャーナリストならではの警鐘と洞察が文面ににじむ。
「戦争が終わっても、まだ原爆によって殺され続けている被爆者がいる。核兵器に対する怒りは、その恨み、憎しみに根ざしている」
とてつもない原子の破壊力が有無をも言わせず、無数の罪なき民の命を奪った。この上ない不条理の中で死んでいった者は、あだを討ってくれと叫びながら、この世を去ったのかもしれない。彼らの恨みや憎しみはいかばかりであったか……。
そんな死者の壮絶な思いに自らの心を永続的にはせることなく、「恨みや憎しみといった人間感情を平和の美名の下に抑え込んでしまう」行為を、平岡氏は断罪する。そして「一夜にして平和主義者になった生者のエゴイズム」が、被爆地の平和運動に内在していないかと鋭く問うてくる。
確かに、非人道性極まりない残虐行為に出た者は、被爆国の敗戦で「免責」された。その後の米軍占領は「恨みや憎しみ」を封じ込め、60年前のサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約の調印を経て、日本は「核の傘」の下に収まった。
核への恨み、憎しみ、怒り――。反核の原点を忘れてはならない。(昌)
◆関連書◆
『無援の海峡――ヒロシマの声、被爆朝鮮人声』 平岡 敬 著
『広島の消えた日――被爆軍医の証言』 肥田舜太郎 著
『隠して核武装する日本』 槌田敦・藤田祐幸他 著、核開発に反対する会 編
『ヒバクシャ――ドキュメンタリー映画の現場から』 鎌仲ひとみ 著
『六ヶ所村ラプソディー――ドキュメンタリー現在進行形』 鎌仲ひとみ 著
『六ヶ所村 ふるさとを吹く風』 菊川慶子 著
『暗闇の思想を/明神の小さな海岸にて』 松下竜一 著
『市民電力会社をつくろう!――自然エネルギーで地域の自立と再生を』 小坂正則 著