● 三省堂書店公式ブログ「神保町の匠」 にて紹介
「あやまちを繰り返さないために何が必要か」 評者: 西浩孝
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● 「思想運動」 2012年9月1日
評者:田中芳秀
今年は、四日市ぜんそく公害訴訟での「原告患者全面勝訴判決40周年」にあたる。
三重県四日市にある泊地区の陸軍製絨廠は、敗戦をはさんで東亜紡織に払い下げられ、四日市泊工場になった。そこに継続雇用された澤井氏は「女工哀史」を乗り越える文化活動をやろうとサークル運動を組織し、実践していく。まず「東亜文化会議」を発刊したが、二号で廃刊して頓挫した。そのあと、新制中学校を卒業した「紡績女子工員」たちが集団就職をしてくる。昔の「紡績女工」とは違う「女子労働者」をみた澤井氏は「一緒に運動がやれる、がんばろう」と思ったそうだ。文学、演劇、音楽、映画の文化サークルを創り、それに参加する女子労働者たちの私的で素朴な生活の綴り方などを皆で読みあうことで成長していくすがたが記されている。
それだけではなく、さまざまな分野の文化人との交流もあった。その経験が、職場生産点であるが故に必然的に自分の労働環境や労働条件にむかっていくのである。それに危機感を露わにした会社の矛先は、朝鮮戦争、レッドパージ、日米安保条約という反動化を背景にオルガナイザーの中心人物の澤井氏に向けられていく。会社のあらゆる嫌がらせは、手練手管のオンパレードである。そして労働組合が組織として個人を守り資本と対峙できていなかったということも見える。
この悪しき構図は、その数年後におとずれる四日市ぜんそく反公害運動にもあらわれてくる。
しかし、「生活記録運動」で培われた蓄積がコンビナートの会社と闘う原動力となり、記録しつづけていくことによって成長する原点が継承されていくのである。
公害の被害者の聞き取りをしたガリ版の記録や裁判闘争は、ここで引用するよりも、本書を読んでもらいたい。ガリ版文集「記録『公害』」や『公害トマレ』をわたしはまだ読めていない。
また、「四日市公害市民学校」についても記されている。この講座がいかに運動のなかで大きな役割をしめしたか。
本書を通じて、感じることは、澤井氏の志操である。
本著の「おわりに――「記録にこだわって」」にこう記している。
「生活記録運動に参加していなければ苦労することもなかった」のではと当時の娘たちに問いかけたとき、「何言ってんのよ、生活記録があったから今の自分がある」と答えた。
● 「出版ニュース」 2012.7下
著者は、子どもたちの生活綴り方を集めた『山びこ学校』に衝撃を受け、敗戦後に就職した紡績工場で文化サークル「生活記録運動」を始める。やがて四日市公害の問題に取り組むが、本書は戦後から高度成長の時代を背景に、民主主義を体得することで公害という社会矛盾に住民運動、訴訟をもって立ち向かった貴重な「語り部」の実践記録である。〈ありのままを記録する。生活記録も公害を記録することも、別段大したことではない〉が、持続する志ゆえに、「扇動者」として解雇され、勤め先の組合からも圧力がかけられるなど道は平坦ではない。運動と記録はまた人間的成長の過程でもある。
● 「朝日新聞」 2012.7.29
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012072900017.html
ツイッターはもちろん、ワープロも一般化していなかったころ、さまざまな社会活動で活躍したのがガリ版印刷だった。
がりがり音をたてながら原紙に文字を刻む。それを「ガリを切る」といった。一瞬の波及力は望めないものの、そこには文字以上の何かが刻み込まれていた。
著者は、三重県四日市市で、ガリ版を「武器」に長年、大気汚染公害とたたかってきた。その日々を振り返る。
1950年代前半、紡績工場で女性工員とともに生活記録運動に取り組み、社会学者の鶴見和子らと交流を結んだ。工場を解雇されて地区労の事務局員に。60年代から公害の被害住民から聞き取りを始め、ガリ版文集「記録『公害』」を99年まで発行してきた。
「弾圧・圧力があったればこそ継続できたと思う。ほめられていたら、無視されていたら続かなかったと確信する」 上丸洋一(本社編集委員)
● 「朝日新聞」(三重版) 2012.6.2
http://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001206020001
「ガリ切りの記」出版
ガリ版の文集で四日市公害を長年記録してきた語り部の沢井余志郎さん(83)=四日市市三重2丁目=が、『ガリ切りの記 生活記録運動と四日市公害』(影(かげ)書房)を出版した。戦後、紡績工場に集団就職した女子工員らと続けた生活記録運動が、反公害運動を進める原動力にもなった、と書いている。
沢井さんは戦後、四日市市の東亜紡織泊工場で働いた。山形県の中学生の作文集『山びこ学校』(無着成恭(むちゃくせいきょう)編)に共鳴し、生活記録運動を始めた。
女子工員らは、貧しい生活ぶりや足の踏み場もない寄宿舎生活など、ありのままを作文につづり、話し合った。この活動は女子工員を成長させ、寄宿舎の増築を実現させる力にもなった。
その後、沢井さんはコンビナートの公害と闘うことになるが、生活記録運動の原点が胸にあったという。
「いつも“なぜ”と考える、自分の考えをもつ人間になろう」
「見たまま、聞いたまま、思ったままを、ありのまま、飾らずに、自分の言葉で書こう」
「仲間たちで読みあい、話し合い、行動しよう」
被害の大きい磯津地区に通い、漁師の生活ぶりやぜんそく患者の苦しみを、ガリ版文集「記録『公害』」に刻み込んだ。1968年から99年まで60号発行し、仲間を増やした。
本書に描かれた市長や議員、企業や労組、役所、学者、被害者らが公害に振り回される姿は、東京電力福島第一原発事故後の現状と重なって映る。
「生活記録運動がなかったら、今の自分は存在しない」と言う沢井さん。本書の最後に「公害は、ppmの数字で表されるものだけではない。自然破壊、環境破壊であり、何より人間を破壊する。過ちを繰り返さないために、一人一人の市民、行政、企業に、この事実を知って、見て、考えてほしい」とつづる。定価2千円(税抜き)。問い合わせは影書房(03・5907・6755)へ。
■互いに学ぶ場、うらやましい
沢井さんの記録活動をどう見たか。『ガリ切りの記』を編集した影書房(東京都北区)の吉田康子さん(41)に聞いた。
私は高度経済成長期に横浜市で生まれた。一生懸命に暗記する教育を受け、そこで勝ち抜いた者だけが成功する世の中に不満だった。生活記録運動は、生き生きとした学びの場。互いの境遇を話し合い、社会への目を培い、仲間との結びつきを強めていく。うらやましいと思った。
金銭的な豊かさが人間的に豊かだという価値観で生きてきて、今、しっぺ返しを受けている。原発事故が起きて生活が壊され、もう原発に頼るのはおかしいだろうと思うのに、そう思わない人たちもいる。価値観の違い、駆け引きがあって、力の強い者のほうへ持っていかれるようでは、社会の枠組みは四日市公害の時とまったく変わらない。
社会が転換点にある今、生活記録運動のように、見て、書いて、読み合って、これからどうやって生きていこうかと話し合う、単純なところに立ち戻ってみてもいいのではないか。
昨夏、磯津の集落を歩いた。そこだけ時間が止まっているように見えて、すごく驚いた。工場の誘致が恒久的な豊かさをもたらすものではないことがわかった。(聞き手・嶋田圭一郎)
●「日刊ゲンダイ」 2012.7.2
四日市公害の被害者支援を続け、今も語り部として活動する著者の回顧録。
戦後、紡績工場で働き始めた氏は、労組活動に加わり、文化サークルを結成。そんな中、子供の生活つづり方を集めた「山びこ学校」に触発され、女子工員らと「生活記録運動」に取り組む。しかし、活動が会社と労組の双方から敵視され、解雇された氏は、活動で培った「戦後民主主義」の精神で、当時、顕在化した四日市公害の反対運動に取り組んでいく。企業、労組幹部、政治家、そして患者ら関係者の姿、言動の「ありのままを記録」した書。
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