書 評



平敷兼七写真集
『山羊の肺――沖縄 1968-2005年 【品切】
⇒【復刻版】はこちら
 



*平敷兼七さんは2009年10月3日に亡くなられました。享年61。謹んでご冥福をお祈りいたします。(影書房一同)

■以下に、平敷さんの関連ページにリンクを張らせて頂きました。(リンク先の皆さまに感謝申し上げます。)

訃報 asahi.com  琉球新報 他
追悼記事  大城和喜氏(南風原文化センター館長) 「平敷兼七さんを悼む」
        勇崎哲史氏(写真家/プランナー) 「弱者への共感満ちる写真」
        目取真俊氏(作家) 「平敷兼七写真集『山羊の肺』」
        森口豁氏(ドキュメンタリスト) 「10月3日 土に還った 君へ」
        石川真生氏(写真家) 「舞い込んだ悲報」
         銀の森(佐喜眞美術館のブログ)
関連サイト 平敷兼七の世界




◆『琉球新報』2007年5月20日

 「底辺の生」強さと弱さ活写
                                      大城和喜(南風原文化センター館長)

 山羊は沖縄の生き写しだ。気性はきまじめでおとなしく優しいのだが、最後にはその絶妙な味ゆえに殺され食べられてしまう。タイトルの「山羊の肺」は、沖縄の歴史と文化の象徴のようだ。

 平敷謙七は、定番の政治闘争や基地ではなく、名も無き人々、人生をマンガタミーして底辺で生きる「職業婦人」「障害者」「アル中・麻薬中毒者」「シマ・ムラの人々」等を、愛情と連帯感を持って活写している。

 写真のタイトルが面白い。「脳は宇宙をかけめぐる」「いつも酒を飲んでいる人」「空き缶を拾いそれを売って家を作った人」「部落に帰って来た人を最初に迎えてくれる人」「好きな男が女の所から出てくるのを朝までまっている女性」。

 こんなのもある。「双子を生み一人は家族にとられ、もう一人をとられまいとして逃げ廻っている女性」。さらに「ゴルフ場の近くに三角小屋をつくって住み、夜になると池におちたボールをひろい、また池のカエルを食べに来るハブをとらえて売り生計をたてている」。優しい平敷の人格がにじみ出て愉快だ。

 社会の矛盾をマンガタミーした名も無き人々は、ハチマキも締めず拳も振り上げず愚痴も文句も言わない。ただただ黙して目の前の蝿を払うだけ。そこに底辺に生きる強さも弱さもある。そういう人々こそ「山羊の肺」であり「沖縄の内臓」なのだ。平敷はそう言いたいに違いない。

 「下からは上がよく見える」。これは戦前小学校の「小使い」を長年勤めたある古老が僕に語った言葉である。身分が上である先生や校長は下にいる人(小使い)を見ようとしない。しかし、何人もの校長に仕えた私からは、校長がどんな人格であるか手に取るようにわかる、というのだ。

 同じように、底辺の人々を見れば、その時代がよく見える。当たり前だが、平敷は時代を撮ったのである。

 「私は小さい時から、今もそうですが、恥ずかしがり屋で、一人で空想しながらのおしゃべりだった。おまけにひどいどもりで……」と平敷は自分を評する。この写真集は、平敷自身の大胆な自首である、と思えてならない。 



◆『読売新聞』2007年5月27日

 沖縄は今月、本土復帰35年を迎えた。本土の側ではあまり話題にならなかったかもしれないけれど。平敷謙七さんが写真を始めたのはその少し前だ。以降、撮り続けた人々や島の姿が一冊にまとめられた。副題は「沖縄 1968-2005年」。なかでも復帰を挟む時期のカットが多い。

 切れ味鋭い撮り口ではない。モノクロの画面は鈍い痛みのように、割り切れなさをにじませる。「沖縄のおばぁさんみたいな気がする」という通り、島に暮らす人々への共感が根底にある。だが現実は容易ではない。夜に生きざるを得ない女性たちがいる。開発で墓が移動させられる。割り切れなさは沖縄の人々の、そして写真家自身の抱える感情なのかもしれない。

 今は一つの県だが、同じ時期、ほかの地域をとらえた写真集があるとして、こうした重さを伝えてくるものかどうか――復帰翌日、離島の風景を見ながら、改めて考えさせられる。(前)



◆『信濃毎日新聞』2007年6月10日

 基地のなかに沖縄がある――とよく言われるが、著者は「沖縄の中に基地があると思いたい」という。今も戦争の後遺症が影を落とす沖縄は1972年に本土復帰を実現するが、本書はその前後に撮影したものを中心に写真集としてまとめたものだ。

 写真はすべてモノクロで約180枚。「渚の人々」「『職業婦人』たち」「俑」などのジャンルに分けて掲載している。そこに映し出されているものは失われた風景と、いつまでも過ぎ去らない過去、変わらない現実……。

 本書は、国民の生活がいかに沖縄の人々の犠牲のうえに成り立ってきたかを実感させる。著者は巻頭で「この写真集を通して、沖縄の歴史とは、沖縄とは、沖縄人とは何かを感じてもらえれば」と書いている。



◆『東京新聞』2007年6月17日

 さんご礁の海とリゾートの白い砂浜だけが沖縄の姿ではない。この半世紀余、かの地に生き、その歴史を体現してきた人々はもっと別の風景も見てきたはずだ。激戦地となった戦争の爪痕、アメリカの占領時代の経験と記憶、今も生き生きと続く不思議な共同体の祭り、性を売る女性たちの生活、敗戦後の多くの人々が体験した貧しさ……。その独特な風土に生きた老若男女の様子や、瞬間の表情が、歴史のネガの風景をとらえる目で見つめられた写真集だ。



◆「週刊金曜日」 2007.08.03(665号) きんようぶんか インタビュー

  戦後の復帰も本土復帰も無縁だった人々
                                          
 ――沖縄の日常を40年近く淡々と記録してきた写真家が、作品を『山羊の肺 1968-2005年』として上梓した。(取材・本文=吉田敬三)

 物心ついたときはアメリカ統治下だった。沖縄は復興の真っ最中で、まだ戦没者の遺骨が埋葬されないであちらこちらに集められていたのを鮮明に覚えている。子どもにとって米軍キャンプから父親がもらってきてくれたキャンデーやチョコレートは最高のおやつだった。

 高校で出会った写真に興味を持ち、カメラを購入して港の漁師や畑を耕す農民を撮り始めた。その時はまだ明確なテーマもなく一番撮らせてもらいやすい老人が被写体になった。当時の沖縄はベトナム反戦デモや復帰運動などが連日のニュースになっていたが、彼らはただ日々の営みを続ける寡黙な人たちだった。文明や文化は時代と共に変わるけれども、人間は昔から変わることなく生きてきたんだという思いを強く感じた。

 写真を専門的に勉強するため上京し、沖縄出身者の学生寮「南灯寮」で他の学生と一緒に山羊を一頭買ってきてみんなで食べた思い出がある。沖縄では山羊を解体できて初めて一人前。子どもの頃、親を見ながら屠蓄の仕方を自然に覚えた。身近に命と向き合う貴重な体験だった。

 時代は学生紛争の最中だったが、昼は建設現場でバイトをしながら夜は写真学校に通ってドキュメンタリー写真を学んだ。そのうち学校の授業にはほとんど出席しなくなり、学生寮で知り合った友人を頼って沖縄の離島を巡る旅に出た。島が違えば地形や風景はもちろん、言葉や文化が異なり、そこで出会った人々を通してウチナンチューとは何か、人間とは何かという生涯関わるテーマが見えてきた。

 写真家になった時、沖縄は本土復帰で沸き立っていた。マスコミも大きく取り上げたが、そこには生活者への視点はなかった。私が特に興味をひかれたのは家族のため、生活のために職業婦人となった女性たち。米軍基地があるところには必ず売春宿があったが、復帰後は沖縄の恥部として意識的に忘れ去られようとしていた。

 撮影は決して無理強いをしない。カメラを持たずにしばらく通って関係性をつくることから始める。そして心が通じたと思えた時に写真を撮らせてもらう。撮影した写真は必ず渡すことにしている。喜ばれることもあれば、不満そうな表情を見せるときもある。ああ、気に入らなかったのかなと、それはカメラマンとしてとても勉強になった。同情とか正義感からシャッターを切っているのではない。沖縄のあるがままの姿に共感して写しているのだ。そこは人間としての魅力に溢れているから。

 最近、教科書検定で沖縄の集団自決から軍関与の記述が削除された。政府は補助金交付を条件に自分たちの都合の良い歴史を作ろうとしている。辺野古(へのこ)では米軍基地拡張工事の調査に海上自衛隊まで出動した。戦争を経験した先輩たちは「自衛隊は軍隊であり、最後は必ず力に訴えてくる」と言っていたがその通りになった。時を経て日本の管理強化とともに、沖縄固有の伝統や文化が失われていくことが気がかりだ。現在、辛うじて村に残るウタキ(注1)やユタ(注2)の撮影を続けている。

 琉球から沖縄、アメリカと日本、いつも時代に翻弄されてきた沖縄だが、時代が変わっても変わらない沖縄の人々や自然の姿を見てほしい。
 
(注1)=御嶽、村落の守護神を祭る聖地。
(注2)=先祖供養、死者儀礼など祭祀を司る沖縄の巫女。



◆「社会評論」2007年秋号

 誠心誠意の心根が描き出す歴史の本質
                                         樋口健二(フォト・ジャーナリスト)

 六二年前、沖縄は米軍と地上戦をまじえ砲弾、銃弾が雨霰れと降りそそいだ。その様子を現地紙は「鉄の暴風」と表現した程の悲惨な状況を生んだ。沖縄の人々は日本本土の盾となり二〇万人とも言われる人々の犠牲を強いられた。そればかりか、沖縄を守るべき日本兵は、敗戦の現実を伝えた現地の青年達を米軍の手先と決めつけ、スパイ扱いして、軍刀や銃剣で殺害するという非人間性をさらけ出しもした。また、米軍が上陸すれば皆殺しにあうなどと虚言を呈し、集団自決に追い込むという残酷さも生み出した。こうした証言を行く先々で聞いた私は、想像を絶する戦争のむなしさ、無意味さを肌で感じたものである。八三年前後、三回にわたり沖縄本島はじめ久米島、座間味島、伊江島で胸の締めつけられる証言を聞いて歩いたことを思い出す。

 久米島の「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民、久米島在朝鮮人」と刻まれた痛恨之碑があり、当時、鹿山正隊長による七家族二〇人の集団虐殺は、残虐性をこれ程あらわにしたものはなかった。その時、出会った女性から、「ヤマトンチュウは帰れ!!」と痛烈な言葉をあびせられた。それでも紹介者を通しての取材だったので、やがて、ポツリ、ポツリと語ってくれた内容は「私の妹(当時二〇歳)は、亭主が日本軍の鹿山隊長によってスパイ容疑で虐殺され、そのショックで自殺した」と涙ながら話してくれた。罵声の意味をいやという程、知らされたものだ。当時、日本本土の人間に対し不信をつのらせざるを得ない理由があった。これは私の取材体験である。

 なぜ前文にこのような体験談を書いたかと言えば、本書『山羊の肺』には当時の残虐性や惨劇がほとんど見当たらない、しかし、写真集を開いてもらえれば明白なように、作者は沖縄戦の実相をすべて、飲み込んだ上で、編集しているからである。沖縄の復帰前後から四〇年の歳月をかけてのフォトルポルタージュである。

 第一章では沖縄の風土と人々の生活感を淡々と描き出す。子供も青年も女性も老人もどのような境遇に置かれても逞しく生きる姿が清々しく写し出されている。時には過去の悲劇の現場に立ち、犠牲となった人々への祈りを込めて写し出す。

 第二章の「渚の人々」の項をめくると、ニッコリと笑えむ老婆の姿がこちらに語りかけてくる。この写真は特に作者に心を許し、手放しでカメラを見つめている。それは作者のおばあさん(祖父の姉さん)だからである。“小さい時から作者を育て高校の時までしわしわのおっぱいをつかませ、寒い時、外出から帰宅するとつめたい足を股にはさみあたためてくれた”おばあさんだからであろう。なんとも心温まる一枚である。今日の日本列島にこのような思いやりや、やさしさに満ちた人間がどれ程いようか。この項には様々の表情をした人物達が描き出され見ごたえがあり微笑ましい。

 さて、この写真集のクライマックスはやはり、第三章となる「職業婦人」たちの項ではないだろうか。タイトルをあえて古めかしいものにしているが、実にアクチュアリティー(現代性)とリアリティー(現実性)に富んでいて見事という他はない。戦争の本質を浮き彫りにしていて胸にしみる。

 苦界に身を沈めねばならなかった女性たちを真正面から描き出すのは恐らく並大抵ではなかったはずである。作者の時間と労力をおしまぬ真摯な態度が、彼女たちに受け入れられて行ったのであろう。単なる興味本位では表現出来得ないからである。それにしてもカメラの前で堂々と裸体を晒し、笑顔をのぞかせる女性たちの何とたくましい表情であることか。それだけに一層の悲しみをさそうのである。同郷の女性たちへ暖かく、やさしさにみちたヒューマンなカメラアイが彼女たちの心を開かせたのは言うまでもなかろう。

 作者の誠心誠意の心根が歴史の本質を描き出してやまない。

敗戦による米兵の性奴隷は、悲しくも現代まで延々と続いて来た。そればかりでなく、日本兵による暴行事件も大事件の陰に隠れてしまっていた。さらに薩摩藩時代の奴属下で税に苦しめられて一家を支えるために身を売らねばならなかった女性たちの慟哭も聞こえて来るようだ。いつの時代にせよ、弱者が時代に翻弄されるのも、また必然的と言わねばならないだろう。なかでも女性たちが犠牲を強いられる理不尽さは哀れである。

 それだけに、この項は時代の本質を描き出し、圧巻である。

 ラストの項は「俑」と名が打たれている。

 粘土で固めた物体(造形物)を沖縄盲学校の子どもたちが創り、人の訪れない戦場跡に置いて来たものである。その造形物は苦痛にゆがんだ顔もあれば、笑いをさそう表情もある。また、怒りに震える顔面もある。

この粘土の顔面を至るところで映像化して見せるのも過去と現在の姿を描く要素ではないだろうか。私が冒頭にほんのわずかに述べた惨劇の歴史を形を変えて静かに訴えているように感じてならない。的はずれだと指摘を受けるかも知れない。

 この写真集もまた実に地味ではあるが、沖縄の歴史をしっかりと刻み込んでいる。

 多くの人に写真を読んでほしい。じっくりと見つめればその時代背景が、じわじわと語りかけてくる。