書 評 伊佐眞一 著 『伊波普猷批判序説』 ★おもな関連・論争記事一覧 ・07/5/19 「琉球新報」*伊佐眞一氏による伊波普猷筆の新資料「決戦場・沖縄本島」発掘の記事 ・07/5/21・23 「琉球新報」(*上の詳論) 伊佐眞一氏 「沖縄の近代とは―伊波普猷「決戦場・沖縄本島」上・下 ・07/6/9 「琉球新報」書評・新川明氏 「『伊波普猷批判序説』を読む」 ・07/7/14 「沖縄タイムス」書評・八重洋一郎氏 「奴隷根性の実証的研究」 ・07/7/26・27,8/3・4・6 「琉球新報」 比屋根照夫氏による反論・「いま伊波普猷をどう読むべきか―『伊波普猷批判序説』の問題点」全5回連続 ・07/7/30 「琉球新報」 仲里効氏 「戦争が露出してきた」 ・07/8/11 「図書新聞」 石田正治氏 「「沖縄学の父」の批判的検証」 ・07/9/17〜21 「沖縄タイムス」「『伊波普猷批判序説』と現在」全5回連続 @津覇実明氏 「人権より経済を優先―東京で沖縄をアピール」 A屋嘉比収氏 「強い愛郷の念を想像―権力臆せず真実語る必要」 B比屋根薫氏 「近代再定義つきつけ―認識揺さぶる伊佐の論考」 C冨山一郎氏 「凝視すべき身体の言葉―問答無用の暴力、依然継続」 D金城正篤氏 「出発点は「日琉同祖論」―郷土誇りに自立主体を期待」 ・07/10/8・10・13・15・16 「琉球新報」 伊佐眞一氏 「比屋根照夫氏の反論を批判する」 全5回連続 @「伊波像の通念は思い込み」、A「時局に自ら積極関与」、B「国家行動を暗黙了承、C「敗戦境に民主主義者へ」、D「戦争責任を封印」 ・07/11/1・2・5 「沖縄タイムス」 伊佐眞一氏「『伊波普猷批判序説』と現在を読む」全3回連続 上「日本への親和性裏付け」、中「真価発揮の機会と判断」、下「沖縄戦が思想の試金石」 |
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◆『琉球新報』2007年6月9日 『伊波普猷批判序説』を読む 評者=新川 明 沖縄研究において、多くの研究者たちのガードがあって、ほとんど不可侵と思われている領域に、敢然と斬り込んだ“衝撃の書”が刊行された。 「沖縄学の父」と呼ばれ、戦前、戦中、戦後の激動の時代を“非戦の志”を貫いて生きた硬骨にして孤高のデモクラットとしてほとんど神格化されつつあった伊波普猷――。その“巨人”の実像に迫り、旧来の伊波諭に鋭い異議を申し立てた伊佐真一著『伊波普猷批判序説』の公刊がそれである。 すでに本紙5月19日付朝刊社会面トップで報じられ、続く21日、23日文化面で全文が紹介された新発見の資料によって、本紙の読者はその一端を知ることができた。 伊波普猷その人が、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸にあたって、沖縄人の「真価を発揮する機会が到来した」と言い、この時期は「藷(いも)の収穫期を迎えてゐる。食料に心配なく、地の利も亦敵の野望を挫くに不足はない」として、「墳墓の地に勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く者である」と言い切って、いままさに地獄の惨禍にさらされようとしている郷里・沖縄の人たちに戦意高揚の“檄”を飛ばしていた、というのである(但しこの発言には、郷里の沖縄人に“檄”を飛ばす形を借りて、本土の日本人の戦意高揚を図り、あわせて沖縄人がいかに“忠実なる臣民”であるかを本土の日本人に訴える意図が含まれているとも考えられる。しかし、仮にそうだとしてもこの言葉は“非戦主義”の対極にあって戦意を煽るだけのもので、本書における伊佐による伊波批判の本旨に南の矛盾も生じさせることはない)。 『東京新聞』1945年4月3、4日に掲載されたという伊波の「決戦場・沖縄本島」と題する一文を目にした者は、誰であれ我れと我が目を疑い、これまで思い描いていた伊波像が音を立てて崩れ去るか、崩れないまでも震度7以上の激震に揺さぶられたにちがいない。 それだけ伊波の一文は衝撃的であったが、今回の伊佐の著作の主眼は、発掘したこの新資料を振りかざして伊波の戦争加担者としての側面を告発するだけの狭いところにあるのではない。 伊波の発言は、遠く1911(明治44)年に初版が出た伊波の代表作『古琉球』をはじめとする諸論考から1947(昭和22)年に伊波が逝去した直後に刊行された最後の著書『沖縄歴史物語』に至るまでの全研究の基調にある歴史意識が、逼迫した時局に促されて露出したものであるという、全く新しい伊波普猷像を描き出したところにある。 その作業は、著者が本書「あとがき」で述べているように、「伊波普猷当人の批判と、彼の思想を支えてきた伊波普猷論の批判」として取り組まれるために、伊波自身の著作論文を細部にわたって批判の対象にするだけでなく、これまで伊波を完全無欠の人間像として描く傾向にあったすべての伊波普猷論や伊波普猷研究を再検証の対象として批判の俎上にあげるのである。 その面で主流にある外間守善『伊波普猷論』(1979年沖縄タイムス社、1993年平凡社)をはじめとする多くの研究者や関係者の論文やエッセイはもとより、昨年10月からことし1月にかけて『沖縄タイムス』に連載された比屋根昭夫「伊波普猷と日系ハワイ移民――第二次大戦下の社会意識」という最近の研究までを視野に入れて批判を展開しているのであるから、まさしく本書はこれまでのすべての伊波普猷研究の総体に対する最新の“異議申し立て”と言うべき著作である。 それだけに著者は本書のために数年の年月をかけて伊波の著作を詳細に読み込み、関係する文献の検証に心血を注いだことは、「伊波が彼自身の沖縄研究の成果とそれに基づく信念のすべてを投入して書いた『決戦場・沖縄本島』という「衝撃的なこの文章を目にして以後の数年は(略)、伊波と木刀や竹刀でなく、真剣で向き合った年月といってよかった」(本書「あとがき」)との述懐によって十分に察せられるところである。 その努力は、著作の三分の一のスペースを占める詳細な〈註〉による出典の明示と自説を補足して周到な目配りをみせる注釈によって知ることができるし、さらにはたとえばその論文に国策追随の明白な文言は無くとも寄稿場所(出版物)をもってその時の伊波の思想を同定するなど従来にない着眼点で伊波の思想を読み解くことで示される。 あるいは、河上肇と交流があったことをもって、伊波と河上の思想を同列に論ずるごとき通説に対する反証をはじめ、伊波が終生変わらぬ自由主義者であったように思い込まされている固定観念から私たちを解放する説得力のある数々の論述によってその努力は証明される。 いずれにせよ本書が、伊波普猷という沖縄近現代史上に屹立する存在を解体しつつ問いかけているのは、いわゆる沖縄研究を「現在の政治、社会状況」とどのように切り結んで展開させ得るのか、という問いである。 それだけにこれまでいささかなりとも伊波について語り、それなりの位置づけを試みた人たち、とりわけ本書で取りあげられた研究者たちは本書が提示した著者の問いを避けて、黙したままでいることはゆるされないであろうと思う。 沖縄近現代思想研究に大きな一石を投ずる近来まれにみる労作の刊行である。これを機に伊波普猷をめぐる不可侵的な垣根が破られて活発な議論が展開され、“沖縄の思想”が豊かになることを願わずにはおれない。 |
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◆『沖縄タイムス』2007年7月14日 評者=八重洋一郎 労作である。その裏には幾年にもわたる著者の綿密な、そして厳密な論証に耐え得る資料収集作業があった。何が著者をこのような執念に駆りたてたか、そしてその執念は実を結んだか。本書はこれらの問いに見事に答え一読する者に戦慄さえ与える。 沖縄思想界を代表する伊波には、われわれ沖縄人の可能性を示す積極的言動とともに、それを裏切る沖縄人の弱点そのものが潜んでいた。それは例えば自分の意志を形成しようとの努力はせず、いかに「時代」や「世」に対処すれば利益を得ることができるかをもっぱらとする「奴隷根性」である。伊波は常々それを批判冷笑していたが、世が戦争という狂乱時代に突入するや伊波自らがその奴隷根性を曝さざるを得なかったのである。 この伊波の言動が――実はそれはごく初期から伊波に内在していたのではあるが――いかに沖縄を誤らしめ、沖縄戦の悲劇を内側から招来するに至ったか。本書は伊波のそのような姿を“臨床検査”し“病理解剖”した実証的研究なのである。既刊の伊波普猷全集からも漏れ出たこまごまとした断片を細心の注意を払って収集し、その断片に多くを語らしめている(したがってその詳細な「注」こそ本書の眼目だとも言える。) さらに一歩進んで著者は、伊波を誤りなき思想人として人格化し伊波への批判を好まない一部言論界の思想的怠惰に対しても鋭い警告を発している。著者は、思想という根底的な人間的営為の底に降りたち、そこから思想とは何かを改めて問いただしているのである。 思想というものは一日にして生まれるものではない。いわば本書の著者のような鋭敏な問題意識と強固な意志、長年にわたる執念とそれを日々実行する労働によって形成されるのである。その意味からも本書はまれに見る「思想」の書だと言える。また読者にとっては、自己の思想を形成する上で実に多くの示唆を与える思想的鍛錬の書となっている。 伊波を批判して事足れりとするのではなく、なぜ今伊波を批判せざるを得ないかという危機意識に満ちた警鐘の書である。 |
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◆ 2007年7月30日『琉球新報』「時評2007」 戦争が露出してきた 予兆を超え現実に 同化を内破する知的実践を 筆者=仲里 功 (前略)5月19日、本紙朝刊社会面トップで報じられた、伊波普猷が1945年4月3、4日に東京新聞に書いた「決戦場・沖縄本島」は衝撃的だった。21日と23日付文化面に上下で掲載された全文と、その問題点を指摘した伊佐眞一の「沖縄の近代とは何か」は、沖縄学研究や伊波普猷論の根本的な再考を促すものであったということだけではなく、沖縄の歴史や現在に思いをめぐらす者にとって、決して避けては通れない「事件」であった。 伊佐は新著『伊波普猷批判序説』で、この「決戦場・沖縄本島」を伊波の「沖縄学」の内的構造を丹念に辿ることによって立件していた。その衝撃の大きさは、新川明が6月9日付文化面に「『伊波普猷批判序説』を読む」を書き、そして比屋根照夫が反論の形ではじめた連載(「いま伊波普猷をどう読むか」7月26日付文化面)によってもうなずけるはずだ。 伊波普猷がまさに物理的にも「戦争が露出してしまった」只中で書いた時局文がこれまでの伊波普猷像を揺るがしかねないものであったということと、そこで論じられた内容が沖縄の〈近代〉のアポリアにかかわるものであった。それが何であったかは伊佐眞一の「近代とは何か」と新著で論じられているので、ここでは次の一点に注目してみたい。 すなわち、琉球人が日本人として「真価を発揮」し「他府県出身者と同様に精鋭なる皇軍として譲らぬ事を立証」したのが「言語の普及と国民教育の発達」であったということである。“化外の民”である琉球人を皇国の民に仕立て上げ、戦争体制を沖縄自ら内面化するのに言語と教育が絶大なる効力を発揮したということである。 伊波普猷がいう「皇国民としての自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を邀撃してゐるであろう」とか「墳墓の地に勇戦する琉球人」がいきつく、その極限に「集団自決」の修羅場があったことを私たちは知っている。改めて伊波の「決戦場・沖縄本島」から帝国と植民地、統合と同化をめぐって、沖縄の今につながる倒錯のなまなましさを思い知らされるのである。 伊佐眞一によって発掘された新資料や伊波普猷と伊波普猷論への批判的介入によって、国民・国家・領土について当たり前と思っている前提が疑義にさらされるのだ。そしてそこから、例えば「改正教育基本法」の「愛国心」条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度を培うというときの、「我が国」や「伝統や文化」のなかに、果たして沖縄は入るだろうか、という問いが立ち上がってくるのが分かる。その時はまた、天皇制を統合の原理としてもってこなかった沖縄の歴史的身体が異議提起として新たな声を獲得していく時でもある。 「戦争が露出してきた」という言葉が、予兆を超えいよいよ現実のものとなってきている今、伊佐眞一によって封印を解かれた文とその文に貫かれた沖縄の近現代に、途絶えることなく流れ込んでいる同化主義を内破する知的実践は、国家としての日本の〈外〉を開き、統合の原理を踏み越える道筋を示唆してもくれる。 |
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◆『図書新聞』2007年8月11日 「沖縄学の父」の批判的検証 評者=石田正治 本書は、「沖縄学の父」伊波普猷に附されてきた「進歩的知識人」というイメージにたいして、著者があらたに発掘した史料をも駆使して、正面から異論をとなえた意欲的な著作である。沖縄県民(むしろ沖縄人というべきであろうが)あるいは沖縄になんらかの関心をもつ者にとっては常識に属することだが、伊波普猷は、琉球王国につたわる『おもしろさうし』の解釈に先鞭をつけた言語学者であり、それをてがかりとして、文献的史料のない時代の沖縄の歴史をえがき、日琉同祖論にもとづいて日本帝国による琉球統合の正当性を論じた人物である。彼が明治晩期から1947年の死にいたるまで書きつづけた膨大な論考の大部分は、全11巻の『伊波普猷全集』としてまとめられており、彼については学術的な研究から通俗書にいたるまで多くのことが書かれてきた。しかし、意外なことに、論考全体をみわたした体系的かつ綿密なテキスト分析はまだ公刊されていないし、彼の思想そのものの思想的位置についても、十分な論拠をもった議論はおこなわれていない。伊波の論理が錯綜していて、彼が伝えようとしたメッセージを判読するのが容易でないということもあろうが、何よりも、「人道主義的なデモクラット」「自由人」という位置づけが、そのような詮索を無用におもわせるほど一般的であった、ということであろう。 伊波に附されたイメージのこのような強固さは、敗戦後あらためて伊波に関心が向けられるようになった経緯にもよっているのであろう。伊波は、敗戦直後に、「民主主義による沖縄再建に貢献することを目的として」東京で結成された沖縄人連盟の指導者として、その創立総会において演説し、日本帝国の政策を「無謀な戦争」と非難し、あらたな日本政府も沖縄人の窮状にたいして不十分にしか対応していないと論難したが、本書の著者は、この演説が民主主義者・自由主義者という伊波にたいする先入観をもたせることになったという。著者は触れていないが、日琉同祖という伊波の主張が革新政党に指導された祖国復帰運動の論拠となったということも、この先入観を強化したにちがいない。しかし、日本帝国が戦時職を強めていく時期に伊波がどのように振る舞ったかを知る著者は、このような先入観に「つよい違和感」をいだいたという。「定説化している(伊波)評価は妥当なのかどうか」。 著者は、すでに戦前にも、このような「定説化している評価」とは逆の評価が提示されたことがあると指摘する。それはとくに、伊波が琉球王国を強圧的に日本帝国に編入した「琉球処分」を、薩摩による支配を終焉させた「奴隷解放」と位置づけたことについてである。1930年代に治安維持法によって弾圧されていた知識人の一部は、伊波がこのような言説を展開したことは、その意図にかかわらず「反動的役割を務めた事になる」と批判したのである。伊波の死後、1950年になると、彼の議論には支配者と被支配者を峻別する「階級的観点」が欠落していたという指摘がなされるようになった。これらの批判は一般に流布せず、さきに述べたような「進歩的知識人」という伊波のイメージが定着していったのであろう。なぜそのような結果になったのかについては、残念ながら、著者は触れていない。 著者自身の伊波にたいする批判は、3点に要約されて提示されている。第一点は、絶筆となった『沖縄歴史物語』とそれまでの著作との関係についてである。伊波は、戦前のいくつもの著作のなかで、日韓併合を推進した李完用を、琉球処分の受容へと琉球王国を導いた宜湾朝保と同様に、高く評価していたのだが、この『沖縄歴史物語』では、李についての言及は「何もない」。「著書で特筆して持ち上げてきた支配国・日本の歴史家として、何らかの説明が一言あってしかるべきではないか」というのである。著者のつぎの批判は、「戦争責任」を追及する仕方が「曖昧」だという点である。これは前にとりあげた沖縄人連盟の総会における伊波の演説が論拠になっている。この演説の中で伊波は、「(敗戦の)責任は誰が負ふのだ」と発言したのだが、それは「消極的尻すぼみの啖呵」にすぎない。「伊波には戦争責任を執拗に追及する意識はそう強くなかったのではないか」。もうひとつの批判は、伊波が「他律依存的『国家』救済の想念」をもっていたことに向けられる。それは、よく知られているように、大正期から伊波の論考にくりかえして表現されている。この「想念」は「下からの、民衆を主体とした運動論の弱さ・欠如とともに、彼に根強く巣くっていた特質」であった。著者は、伊波の戦後の文章に「沖縄が日本にとどまること意外の選択肢はありえない、とのニュアンス」を読みとり、伊波は「ヤマトのコントロールを脱した」沖縄人のなかに萌していた「解放感と未知への曙光」を軽視してしまったと主張する。伊波の思索がこのような終わり方を迎えたのも、この「根強く巣くっていた特質のためだったというのである。 著者は、伊波が戦時下で発表した短文を精力的に発掘して引用し、彼がいかに日本帝国を翼賛していたかを示している。しかし、帝国が上下ともに戦争へ突き進むなかで、支配的な言説に抗するための批判的な視座を持ち得なかった知識人は伊波だけではないし、むしろそれが大多数であった。河上肇が回顧したように、マルクス主義理解にかんして河上自身をふくめて「日本の思想界全体がひどく立ち後れ」ていたからでもある。伊波の言説を、没後60年をむかえた今日批判することの積極的意味は、伊波自身の思想行動の限界をあきらかにすることそれ自体よりは、むしろそれ以上に、戦後に活躍をはじめた知識人たちが、多分に自己の思想的立場を投射してつくりあげてきた伊波像を批判的に検証し、そのような知識人の思索のあり方を問い直すことに求められねばなるまい。どのような形をとるにしても、そのような作業は、沖縄の祖国復帰運動をめぐって展開された言論活動のみならず、日本国全体の戦後精神史の再検討につながるであろう。著者のあらたな成果を刮目して待ちたい。 |
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◆『出版ニュース』2007年7月下旬号 伊波普猷は、「沖縄学の父」と呼ばれ、リベラリストの立場を貫いた学者としての評価が定着しているが、〈人びとが思い描く伊波普猷のありようは、一筋縄ではいかない複雑な陰影をもつ多面体である半面、他方では輪郭も鮮やかな、確固とした立像として私たちの前にある〉と、著者は定説的な評価は妥当なのかどうか、伊波の本来の姿を歴史上の文脈、資料の中から探り出す。本書は、膨大な文献から伊波の軌跡を描き、実像を明らかにする試みで、とりわけ沖縄学の体系化と並行して日本近代への視線と戦時下における伊波の位置を照らしだす。ここから、伊波普猷および伊波普猷論を批判的に再検討、沖縄史・学を問い返す。 |
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