書 評

石川 逸子
『〈日本の戦争〉と詩人たち』
 



◆『社会評論』140号 2005年冬

                                             評者=松岡慶一

 原爆を詠んだ詩人たち、日本の侵略戦争/植民地支配を詠んだ詩人たちについてのエッセイ集。明治以降日本は、日清・日露戦争から日中・太平洋戦争まで、戦争と植民地支配の道を歩んできた。ここには日本の戦争体制のなかで苦しみ、戦争に向かい合った濱口国雄、尹東柱、雷石楡ら日本、朝鮮、中国の詩人たちが描かれている。著者は1975年に勤めていた中学校での広島修学旅行の際、被爆者や遺族の思いに触れ、ミニ通信『ヒロシマ・ナガサキを考える』を1982年から発行し始めた。本書はそれを中心に編まれた。次のところが印象的だ。原民喜は「戦争について」(1948年)で「日本軍による香港入城式の録音放送を聴いてゐた時のことであつた。戦車の轟音のなかから、突然、キヤーツと叫ぶ婦人の声をきいた僕は、まるで腸に針を突刺されたやうな感覚をおぼえた。」と書いている。香港の英軍降伏は太平洋戦争勃発直後のことだ。翌年には、佐藤春夫など詩壇の詩人たちは競って戦争謳歌の詩を書く。原民喜は彼らと違って日本軍に蹂躙される民衆の痛みをわがものと感じていたのだろう。もうひとつ、中国の陳輝という日本軍と闘った詩人について。彼が書いた「ひとりの日本兵」という詩は、日中戦争のなかで戦死した日本兵を中国の農夫が埋葬しているシーンを詠った詩だが、日本兵への憎しみではなく、犠牲になった若者への哀悼の思いが込められている。そこには人間の命がふみにじられることへの深い悲しみがある。ここに書かれた詩人たちの言葉を受けとめ、戦時の色濃い、いまの日本で生きるための糧としたい。




◆『週刊読書人』2004年9月24日
                                   評者=黒古一夫(文芸評論家)

 先のアジア太平洋戦争が「ポツダム宣言受諾=全面敗北」という形で終わって、すでに59年、敗戦の年(1945年)に生まれた者も来年には還暦を迎えるという「時間」が過ぎ、「戦争」と言えば、せいぜい現在のイラク戦争かその前の湾岸戦争しか思い起こさない世代が、「平和な街」を我が物顔で闊歩する時代になっている。だが、果たして先のアジア太平洋戦争は、「過去」の出来事であったのか。

 軍属その他を含む日本人の戦死者が300万余、中国大陸をはじめとするアジア太平洋地域の死者が2000万人を超えるこの戦争で、死者の数を上回る肉体的にも精神的にも「傷」を負った多くの人々が存在すること、例えば「ヒロシマ・ナガサキ」による被爆者の数が現在もなお30万人余であることを考えれば、アジア太平洋戦争は決して「過去」に封印されるべきことではない。被爆者のように未だ「傷」から血を流し続けている人々が国内外に数多くおり、靖国神社に祀られることなどでは決して魂を鎮められない無念の思いを抱く死者の関係者たちも、また存在すると思われるからに他ならない。

 戦後、人々を戦争へと駆り立てた文学者に対して「戦争責任」を追及動きが、新日本文学会や吉本隆明、武井昭夫らによって進められたが、戦争によって死へと追いやられた文学者、あるいは心に深い「傷」を追って沈黙を余儀なくされた文学者たちについては、中野重治など幾人かの著名人を除いてこれまで十分に言及されることがなかった。

 本書は、1982年からミニコミ誌『ヒロシマ・ナガサキを考える』(現在まで80号)を個人で出し続けている詩人の石川逸子が、先のアジア太平洋戦争で「犠牲」を強いられた詩人たちについて、「黄泉の世界」から呼び出すようにして論じた文章を集めたものである。原民喜、正田篠枝、今井窗月、原口喜久也、水谷なりこ(以上、T原爆を詠んだ詩人たち)、雷石楡、陳輝、尹東柱、姜舜、李陸史、桃原邑子、濱口國雄、桜井哲夫、柏木清子(以上、U「日本の侵略戦争/植民地支配」を詠んだ詩人たち)、この他、本書には「V『日本の戦争』を詠むということ」という戦争と詩表現との関係を論じた章もあるが、取り上げられている詩人たちの顔ぶれを見て気付くのは、沖縄からハンセン病「隔離」施設に収容されていた「日本」の詩人だけではなく、朝鮮(韓国)、中国の詩人たちにも及んでいることである。戦争で犠牲を強いられたのは日本人だけではなく、アジア全域の人々であるとする石川の確かな視点が、ここにはある。「私たちは忘れても、死者たちは忘れず、その死者たちの祈りによって私たち生者は生き得ているのではないか」(「太田川と水谷なりこ」)、「言葉が疎かにされるとは人間が疎かにされていることに他ならない」(「アジアの詩と日本)、「隠蔽されている真実をさまざまな機会にさまざまな者がそれぞれの方法で、心から心へ、ひろげていくことが大事なのだろう。地道に、粘り強く」(「思うこと」)、これらはほんの一例に過ぎないが、戦争によって傷つけられた人=詩人たちに対する石川の「復権」への強い思いが、これらの言葉から伝わってくる。石川は、戦争や原爆への呪詛や怒り、恨み、そして悲しみを元基として表現=詩作へと赴いた詩人たちにおのれを同化させ、彼らに共振しながら、見せかけの「平和」と「豊かさ」に満ちた現在を告発し、表現する者としての責務を、ここに収めた文章によって果たしている。新たに戦争が「露出」してきている現在だからこそ、そのような本が多くの人に読まれるべきなのではないだろうか。