書 評






 加藤周一/ ノーマ・フィールド/ 徐京植 著 
 『教養の再生のために ――危機の時代の想像力
 


◆『赤旗』2005年7月3日
 
 人間を自由な人格へ育成する学問
                                  評者=村瀬裕也(香川大学名誉教授)

 本書は、東京経済大学の講演会における徐京植氏(企画者)、加藤周一氏、ノーマ・フィールド氏の講演記録と、徐氏を聞き手とする加藤氏の談話から成り、教養や教養教育をめぐる論議に一石を投ずる好著である。
 冒頭の趣旨説明で、徐氏は、実用的な目的にのみつながった学問、その意味で「奴隷的もしくは機械的な技術」に局限された学問の一面的な拡大と、それ自体として価値のある学問、それを通して人間を自由な人格へと育成する学問としての教養の顕著な衰弱という今日の危機的状況に警告を発し、新たな教養の再生の必要を訴える。

 それをうけて、加藤氏は、テクノロジーの文化(実用主義の文化)と教養主義の文化とを区別し、両者の特徴を次のように把握する。すなわち、前者は専ら生産技術とか軍事技術とかいった手段に関係するが、社会全体の在り方をどうするか、戦争か平和かというような目的の選択に携わるのは後者、すなわち教養主義の役割である。では適切な目的選択の条件は何か。加藤氏によれば、それは良心の自由と「他者」の立場に立ち得る想像力にほかならない。

 フィールド氏は、加藤氏の提起した「目的」の選択や設定に関連して、教養の意義を、すべての人々が有意義な生涯を送り得るような社会を目指すことに見いだしている。ここで前提とされるのは、まずは戦争と貧困の撲滅である。故に戦争と対決する市民的団結の能力や、福祉を権利として認識し守り抜く用意こそ、教養の基本でなければならない。フィールド氏はここで「理想に対する執念」という印象的な言葉を語っている。

 加藤氏の談話には、サルトル評価や旧ソ連の得失など、興味深い話題が登場する。また掉尾を飾る徐氏の総括的講演は教養問題に関する今後の展望に多大の示唆を与える。本書の広範な普及を切望する所以である。





◆『論座』2005年7月号

 エリートの専有物にしないためにはどうすればいいか 
                                          評者=根井雅弘(京都大学教授)

 一昨年、竹内洋氏の『教養主義の没落』(中公新書)という本が識者のあいだで評判になったことがあった。「教養主義」という言葉を聞くと、私たちは、すぐ戦前の旧制高校時代(とくに、デカルト、カント、ショウペンハウエルなどの難解な哲学書をわからずとも読み漁っていた学生たちの姿)を回顧的に思い浮かべてしまうが、竹内氏の本は、「教養主義」が戦後まったく消滅したわけではなく、高等教育の普及とともに「大衆的」教養主義へと形を変えて、少なくとも1970年前後までの学生文化を支配してきたことを主張した興味深い読み物であった。

 だが、いまや、「教養主義」は完全に「没落」または「消滅」したといったも過言ではない。有名国立大学の教養部は、ほとんどが次々に名前を変えるとともに独自の大学院研究科をつくり、教養教育をできるだけ各学部へ任せようとしているのが実態である。だが、各学部が慣れない教養教育をいきなり任されても、そのための準備が十分に整っているわけではない。しかも、「教養」の必要性について、教員のあいだでコンセンサスがあるわけでもない。現在、大学における教養教育は、全く混迷のなかにあると言ってよいだろう。

 そんなところに本書が登場した。本書は、東京経済大学における21世紀教養プログラム発足記念講演会をまとめたものだが、有名な論客を揃えているせいもあって、考えさせられる多くの問題提起を含んだ好著である。「教養」という言葉を聞いて、マイナスのイメージを抱く向きもあるかもしれないが(例えば、一部のエリートや特権階級の専有物だというような)、それでも、著者たちは一貫して「現代の教養とは何か」を追求している。そのためには、「教養」を改めて定義し直す必要があるだろう。

 著者の一人の徐京植氏は、ノーマ・フィールド氏の講演を引きながら、「教養」(リベラル・アーツ)を次のように定義する。すなわち、それは「自由人」(フリー・マン)にふさわしい学芸(アーツ)や学問(サイエンス)のことであると。そして、「全般的な知性の拡充と洗練をめざし、技術的もしくは専門的訓練のための必要に狭く限定されない」ということを強調している。
 そもそも、「教養」が衰退した理由は、加藤周一氏によれば、一つには、それが具体的な問題解決に直接的に役立たないと見なされたことと(それに対して、科学やテクノロジーは社会や環境を変えていく)、もう一つには、大衆教育の普及の反面で科目選択の幅が狭まったこと(もう少し敷衍すれば、各人がプログラムの選択能力をもち、決して他人からは強制されないという前提が崩れたこと)の二つが挙げられるが、その行き着くところ、故人や社会にとって「究極の目的は何か」を深く考えず、「目的のない、能率だけの社会」が出来上がってしまう。

 それに対して、「教養」の再生によって何ができるのか。加藤氏は、次のように主張する。民主主義的な市民社会の前提は「自由」や「想像力」(他人の心のなかに感情移入する能力)であり、それらは、まず、文芸や芸術のなかで養われること、そして、そのような文学的教養が少なくとも「差別」を乗り越えていく可能性を秘めていることである(もちろん、加藤氏は、かつての大正教養主義が必ずしもそのような方向に進まなかったことは認めているが)。

 では、「教養」が、かつてのエリートや特権階級の専有物とならないようにするにはどうすればよいのか。徐京植氏は、そこに絶えず「他者」を介在させることだという。「自分とは違うもの、自分とは異なる歴史的背景、自分とは違う文化、自分とは違う階級、自分とは違う性、そういうものに属している他の人たちから見たときに、自分はどう見えるだろうか。そのように絶えず他者をとおしてみずからを振り返る、その反復のなかで教養というものが鍛えられ培われてゆく、そのようなありかたが現代の教養教育に求められていることなのだ」と。だが、これは口で言うほど簡単ではない。徐京植氏も、そのことを重々承知しているので、あるところで、究極の例として、プリーモ・レーヴィというアウシュヴィッツを生き延びたイタリアのユダヤ人の例を挙げている。

 レーヴィのエッセイ集『溺れるものと救われるもの』を紹介しながら、次のように言う。「教養は、いまのこの強制労働を逃れるために、あるいは一匙でも多く人より物を食べるためには役立たない。しかし自分がいまここで受けている苦難というものを、より広い世界と歴史のなかで見る、つまり『外』の存在を認識する、そして歴史のなかで、ギリシヤ神話の昔からそのような苦難のなかで人間は徳と知を求める存在であることを認識し苦難に立ち向かってきたのだ、ということに思いをいたす。そして、トロイア戦争の経験を語るために苦難の航海を続けたオデュッセウスと同じように、自分もやがてはこの地獄から帰還してこの地獄の経験を語るのだ、証言するのだ、証人として生きるのだということが、彼に強制収容所を生き延びる力を与えたということなのです」と。
 「人間は徳と知を求める存在である」とは、必ずしも言い切れない。むしろ、つねに「野蛮化・機械化する存在」になる危険性にさらされていると言ってもよい。そうならないためにも、「教養」が求められているという主張は、心ある人たちには真剣に受けとめられるに違いない。





◆『東京新聞』2005年3月13日

 東京経済大学での加藤、フィールドの講演記録、徐の講演録などを収録。教養についての共通理解がないという認識のもと、現代における教養とは何かについての意見を各者が語っている。加藤は、目的地を定められる能力が教養であるとし、フィールドは、理想に対する執念を生むのが教養の力の一つだと言い、徐は自由な人間になるための基礎知識だとして、教養教育の意義を訴える。




◆「出版ニュース」2005年3月

 〈どういう価値を優先するか、その根拠はなぜかということを考えるために必要なのが教養です。それがないと、目的のない能率だけの社会になってしまうでしょう〉(加藤周一)。〈民主主義とは一度確保したら持続するものではなく、永久革命を必要とする制度であり、思想であり、生き方に他なりません。そのためにこそ、想像力を解放し教養の再生を図りたい〉(ノーマ・フィールド)。〈いま、2004年の教養に問われていることは、みずからの精神の自由を守るだけではなく、いかにしてこの野蛮や機械化への傾斜というものを実際に阻む力になることができるか、ということなのです〉(徐京植)。現代における「教養」の意味と意義を三氏が説く。大学の講義、講演、インタビューで構成された「教養」入門講座。戦争を止められず、シニシズムが蔓延し、理性への信頼が脅かされている中で、真の「教養」とは何かをシンプルに分かりやすく。