書 評

久保 栄 著
『久保栄演技論講義』

 


 ◆『演劇会議』

 若い人に「久保栄を知ってる?」ときいたら「その人って役者……ですか?」と逆に尋ねられた。時の流れを痛感した。久保栄(1900〜1958)日本の新劇の発祥地、築地小劇場から新協劇団、前進座、劇団民芸に参加し、名作『火山灰地』『林檎園日記』などの戯曲、島崎藤村『夜明け前』の演出などで新劇の神様のような存在だった人……カナ。

 その神様のような久保栄が亡くなる前の1956(昭和31)年4月から一年余り(20回)劇団民芸の若い研究者たちに「演劇とは?」「演技とは?」と講義した。

 「ぼくは若い君たちのなかから、ひとりでもふたりでもいい、ほんとうの役者になってくれる人が出てくれないことには、死んでも死にきれない。」

と、病身の久保栄は全力投球で講義した。ただし、久保栄は研究生がノートをとることを許さなかった。研究生たちはそれぞれ自宅へ帰ってから、急いでノートに書きとめた。久保栄の死後、誰言うとなく「先生の講義をまとめよう」と話し合い、山田善靖を中心に、内藤安彦、山吉克昌や久保の講義をうけた研究生、劇団民芸の劇団員たちの記憶や助言など、可能な限りの正確を期して完成したのが『久保栄演技論講義』である。

 この本は1976(昭和51)年3月、三一書房から出版されたが、その後出版社もなくなり「幻の名著」といわれていた。

 それが2007年11月、久保栄没後50年を記念して「演劇をこころざす若者たち必見の書」として再刊されたのである。

 久保の最後の講義をうけ、この本の編集の中心となった山田善靖は、当時23歳の演劇青年だった。その後、劇団民芸の演出部で『ガラスの動物園』(T.ウイリアムズ/作)や『銀河鉄道の恋人たち』(大橋喜一/作)などの演出、大橋喜一との共作『ぼくは生きたかった』他の作品を書き、劇団銅鑼の創立メンバーでもあった人。山田さんの中には久保栄が死の直前まで演劇によせた熱い一言一句が、昨日のように鮮やかに生きている。感動する。(K)




◆『ほっかいどう演劇』

                                        評者=飯田信之(劇団さっぽろ)

 予定を変更して『久保栄演技論講義』再刊の宣伝をさせて下さい。

 久保栄、1900年札幌生まれ、1958年没。代表作に戯曲『火山灰地』『林檎園日記』『日本の気象』など多数、小説『のぼり窯』など。

 その久保栄が、劇団民藝附属演劇研究所の生徒を相手に1956年4月から翌年3月まで講義をした記録が本書です。出版は1976年3月(三一書房)、そして今回の再刊はそれから32年(影書房)、久保栄の没後50年に当たります。

 私が劇団民藝俳優教室(水品演劇研究所からそう改称されて2年目)に入所したのは、1962年4月。前年11月から12月にかけて京都で久保栄『火山灰地』を観たのがきっかけになりました。この時の『火山灰地』には、冒頭の宇野重吉の朗読とともに強烈な印象を与えられました。

 「先住民族の原語を翻訳すると/「河の岐かれたところ」を意味するこの市は/日本第六位の大河とその支流とが/真二つに裂けた燕の尾のように/市の一方の尖端で合流する/鋭角的な懐に抱きかかえられている。」ぐいぐいと緊迫してくる朗読は、私に語りかけてくるのです。私に向かって、そうとしか見えないのです。実は前夜観劇した私は、次の日誰も知人はいないのに楽屋を訪ね、チケットが無いのだが、どうしてももういちど観たい、なんとかしてほしいとずうずうしいお願いをしたのでした。すると、鈴木瑞穂と演出部のNが、席はないが、通路に座っての観劇でかまわないかと応対してくれて、客席にもぐり込んだ、文字通りモグリの観客でした。それが前日には味わえなかった、幕開きの朗読から自分に向かって語ってくれているという感動に結びついたのだと思っています。

 一ヵ月後の第二部も同じ情況でした。もう鈴木瑞穂もNも、自分の長年の友人と勝手に思い込んでしまっていました。そして、ラストの鈴木瑞穂演ずる市橋のせりふ「……したら、みなさんさ伝えてくださえ――愛んこい男の子だってな……泉の冶郎さ、そっくりでねいすか。」に大きな感動を覚えました。二つのせりふは、宇野重吉と鈴木瑞穂の音色とともに、胸の奥にしまいこまれ、今でも時折、口から出るのです。

 翌年、民藝に行こうと決めました。ところが、今年は昨年の俳優教室生徒でいっぱい、今年は新たな募集の予定はないとの返事でした。あきらめきれず宇野重吉に直訴し、「同じような希望者がいるので試験だけしようと思う。ついては希望する理由を文章で提出せよ。」との返事を頂き、『火山灰地』観劇の感動をしたためました。結果、俳優志望のみんなとともに実技の試験を受けて民藝俳優教室生徒に、裏方として編入されました。

 そこで今回話題にしている『久保栄演技論講義』のメンバーとの出会いがあり、原稿のガリ切りの手伝いをすることになりました。ノートを取らずにという講義の再現はなかなか大変でしたね。会合は毎週土曜日に開かれていました。私は久保栄も『演技論』も理解しないままでした。

 ほぼ時期を同じにして、久保マサさんに声をかけられ、『火山灰地』上演を契機に出版されていた『久保栄全集』全12巻(三一書房出版)の最終校正の手伝いをさせてもらい、謝礼には完成された本を一冊ずつ頂くのが最高の喜びでした。

 あれから50年近い日々が流れて、突然のように、編集同人代表の山田善靖から再刊本を贈呈され、北海道演劇集団の仲間に、「広く読んでほしい」と言われ、懐かしさとその後の不勉強に恥じ入りながら、あらためて自己紹介のつもりで記しました。これでも『久保栄演技論講義』の出版に、多少のお手伝いができたのかなと思いながら。実際は、新作に取りかかる前に、どこかの章を読み返してきました。その度に、生徒との対話ですすめられる講義に感銘を受け、少なくともあと10年は俳優を育てる仕事をしてほしかったという思いにとらわれるのでした。特に、○エチュード『林檎園日記』、○統一発声の項では、久保栄の肉声のテープを聞き、生徒のエチュード演技の実際を見たいというもどかしさを抑えがたいのです。

 第一日目の授業は、「ぼくの授業はそうとう高い理論を教育する循環教育システムです。わからない人は、いまわからなくても、二度目三度目にわかってきます。わかったと思う人でも同じです。」という魅力的な言葉でしめくくられています。私は、この言葉が好きです。

 一人でも多くの人に読んでほしい、と願います。(敬称は略しました。但し、久保マサさんはさんがついてフルネームです。私には。)