書 評

久保 覚
『古書発見――女たちの本を追って
 




◆『東京新聞』2003年4月27日より

 時を越えて読まれ続けてほしいのに、忘れられてしまった本を紹介するエッセー集。女性の書いた本、あるいは女性たちを描いた本52冊が取上げられている。何らかの形で社会に目を向けた作品が多く、本書を読むだけでも女性たちの苦闘の歴史を垣間見る心地がする。編集者として知られた著者の、女性たちに対する尊敬の念や書物に対する態度は、真摯そのもので、胸打たれる好著である。




◆『ふぇみん』2003年5月5日より

 本書は、月刊誌「本の花束」(生活クラブ生協連合会発行)に連載されたエッセーを纏めたもの。

 著者は「花田清輝集」などの名著を世に送り出し、市民の文化・芸術活動の理論化を追及し続けていた名編集者。絶筆となった最後のエッセーは、ローザ・ルクセンブルグの「ロシア革命論」。

 エッセーには、一冊の本を読者に手渡すための思いの深さが、簡潔な行間から滲み出ている。そしてそれは蓄積された豊富な知識と深い洞察力に裏打ちされているので、読む者の魂を揺さぶる力がある。

 著者は、埋もれたり忘れられたり、片隅に追いやられて、しかし、意味があるだろう本だけを選んだというが、「こんなによい本があったの? 知らなかった」と驚くばかり。

 魂の殺戮を証言する文学、行きながらの死・女性彫刻家の悲劇、悲劇的革命舞踏家の自伝、朝鮮の舞姫・若き日の宣言、世界に向きあうことの精神、最初の衝撃・石牟礼道子などなど、世界各地域のジャンルの違う女性たちの生き様を通して、いま必要な精神とはと自分に問うた。                           (北)





◆『北海道新聞』5月4日『西日本新聞』2003年5月20日より


   時代に抗した女性たち
                                
評者=吉武輝子(ノンフィクション作家・評論家)

 稀に鳥肌が立つという感覚に襲われる本に出会うことがあるが、まさに本著は稀なる出会いの一冊といっていい。本著は国も活動分野も多岐にわたる53人の女性の社会活動家や表現者たちの著作を紹介し、「いかなる権力も奪い取ることのできない」水晶の精神を持って時代に抗い続けた女たちの人生の軌跡を見事にあぶり出している。

 ポーランド出身のユダヤ人女性作家アンナ・ラングフェスが1962年に、フランスの文学賞「ゴンクール賞」を受賞した『砂の荷物』も収録されている。収容所という地獄の川を渡り、事故の内部が打ち砕かれたまま、現実の生に復帰しようと試み、結局は無残な破局を遂げてしまう女性を描き、まさにあらゆる差別が魂の殺戮であることを証言した文学には、短い紹介文であるにもかかわらず、直に心臓を掴まれたような衝撃を覚える。アンナ自身が3冊の本を書き上げた後、66年に自殺したという淡々とした記載が、強制収容所が命だけではなく、魂をも殺戮してしまうという事実をさらに鋭く突きつけてくる。

 一冊の本が呈示するテーマが、読むものの志の高さや、精神性の有無や、平和への希求の強調などによって、いかに万華鏡のように変幻自在となりうるか。人間の無限の可能性を信じさせてもくれるこのエッセー集は91年9月から98年10月にかけて、月刊誌「本の花束」に掲載されたものである。「本の花束」は生活クラブ生協の主婦たちが本を生活の一部と考え、いい本を直に手渡していくことを願って、筆者たち専門家を交えてつくってきた「生活者のための本の新聞」。

 筆者は「埋もれ、見過ごされ、打ち捨てられてた、しかし今必要な女の本の再発見」を志し、真摯に取り組んでこられたが、98年、志半ば、僅か61歳で急逝された。鳥肌が立つという稀なる感覚に襲われたのは、筆者の次世代に何を残さねばならぬかを問いつづける水晶のような精神と、平和のための品性豊かな文化を構築しようとの祈りが伝わってくるからである。(吉武輝子/ノンフィクション作家・評論家)





◆『女性ニューズ』2003年5月20日より


 これは宝石箱のような本である。読むほどに光を帯びてくる女たちの本が、ぎっしりとつまっているのだ。
 本書は月間紙『本の花束』(生活クラブ生活連合会発行)に、1991年から1998年にかけて連載された故・久保覚さんの文章を『本の花束』の当時の編集者がまとめたものだ。
 著者が連載で紹介するために選んだ本は「できるだけ埋もれていたり、忘れられていたり、片隅に追いやられていて、しかし、意味があるだろう本」にしぼられているが、例外である石牟礼道子著『苦海浄土――わが水俣病』では、「安易な言葉の使用が一つもない」すごさに触れている。
 冒頭の本はマルガレーテ・ブーバー=ノイマン著『第三の平和』で、ソ連とナチス両方の強制収容所を生き抜いた体験を綴ったものである。決して絶望せず、自分を曲げない女性の創造者や社会活動家(レイチェル・カーソンやローザ・ルクセンブルグ、秋元松代や伊藤ルイら)。50人を越える著作の中に、本紙の関千枝子さんの『この国は恐ろしい国――もう一つの老後』も入っている。著者は「初めて読んだ時の、身の震えるような驚き」を述べ、いまこそ読み返す意味のある一冊にあげている。
 本書の出版を心から称えたい。(陽)





◆『読売新聞』2003年6月8日より


 『花田清輝全集』など多数くの名著を世に送り出した編集者が、消費社会の片隅に撃ち捨てられた、しかし今こそ精読が求められる「女たちの本」を丁寧に選び、魅力を活写したエッセー集である。
 〈けっして絶望せず、自分を曲げず、反抗と怒りを燃やし続けて必死に生きぬいてきた〉――そんな女性だ、久保が全身でエールを送るのは。舞踏家イサドラ・ダンカン、画家ケエテ・コルビッツ……時代、分野も異なる52人の著述が取りあげられた。
 筆致はすこぶる熱い。石牟礼道子の『苦海浄土』との出会いは「血管の中の事件」。原爆文学の記念碑と呼ばれる福田須磨子、大田洋子の諸作が入手しづらい現状を憤り、覚えず〈彼女たちを忘却することは、まさしく犯罪といわなければなりません〉と叫ぶ。
 時代の波間をただただ浮き草のごとく漂う現代人に、抵抗の美学を取り戻させるために必要な"武器"は何なのか? 
 女たちの古書を選び取った著者の卓見が光る。(市)





◆月刊『クーヨン』2003年8月号より

 
届きにくいから読みたい! 女たちの本


 ここに集められているのは、「埋もれ、見過ごされ、打ち棄てられた、しかし私たちにとっていま必要な〈女たちの本〉」。マルガレーテ・ブーバー=ノイマンの『第三の平和』、イサドラ・ダンカンの『わが生涯』、朴寿南の『もうひとつのヒロシマ』、ローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命論』など、地域もジャンルもさまざまな女性創造者、社会活動家たちの著作52冊である。

 どれも骨のある好著ばかりで、「すぐにでも読みたい!」と鼻息を荒くしてしまう。すでに入手しづらくなってしまった本もあるが、いまを生きる女性に彼女たいのメッセージを届けたい、そして時代を拓く力に変えてほしいと強く願った著者の筆は熱っぽく、書評にとどまらないその文章を読むだけでも、気持ちが揺さぶられる。理不尽な戦争を許さないわたしたちであるためにも、もっともっと本を読みたい。





◆『社会評論』134 2003年夏号より


  
時代と格闘した女たちの証言
                                    
  評者=市橋秀夫(現代社会史研究)

 『本の花束』という小さなメディアがある。生活クラブ生協が組合員向けに出している全8頁、月刊の本の紹介新聞である。小さな、と言ってもそれは体裁のことで、中身は重厚だ。大きなメディアや速いメディアばかりがすべてであろうかのように煽りたてられているこの時代にあって、小さいメディアに何ができるのかをひとつのモデルとしてきちんと示してきたのが『本の花束』だと言っていい。

 たとえばその小さなメディアは、組合員自身で構成される〈本選びの会〉が紙面づくりに参加するという、文化の協同組合活動と呼ぶにふさわしい活動を基底にすえて発信されていた。そうした手間のかかる活動に編集協力者として関わりながら『本の花束』の発行を支援していたのが、『花田清輝全集』の編集者として知られるいまは亡き久保覚であった。本書『古書発見』は、7年にわたって彼がそこに執筆した「古書発見」という小さな連載コラムを集成したものである。

 本書では、20世紀という時代に翻弄されながらも時代と格闘して激しく生きた女性たちが残した本が多数紹介されている。自伝、戯曲、小説、詩、随筆、聞き書き、ルポルタージュなど、世界各地のさまざまなジャンルの、女性の手になる本が取り上げられている。

 久保は編集者として、日本の戦後思想の形成に対して決定的な影響を与えることになる本を幾冊も世に送り出す一方で、アジアの民衆芸能の研究者としても、20世紀の文化史の見直しを迫るような論考を発表していた(それらの論考は、彼の遺稿集『収集の弁証法』、久保覚遺稿集、追悼集刊行会編集・発行、影書房発売、2000年、で読むことができる)。そのため、アクチュアルな問題意識を持った民衆文化研究者としての久保に注目していた読者のあいだでは、たとえば、本書のなかでもその自伝が紹介されている、戦前の日本で絶大な大衆的人気を誇った朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜の決定版の伝記を彼が執筆するのを待ち望む声が根強く存在した。

 評者も、そうした読者の一人だった。ごく短いコラムを書くために一方ならぬ量の資料を集めるなど毎月多大な労力を費やし、本格的な民衆文化史研究とその執筆への取り組みを先延ばしにしていた久保に、評者は不満だった。しかしそれが近視眼的なものの見方であったことに、今回本書で再読の機会を得てようやく気づいた。

 本書に収録された連載コラムにおいて久保は、暴力に満ちた20世紀の受難者たちの証言の記録としての「古書」の発掘を、おそらくみずからの生の軌跡を重ねつつ最も重視していた――スターリンとナチス・ドイツの両方の強制収容所に送られながらも生き延びたブーバー=ノイマンの『第三の平和』、ユダヤ人でありながらシオニズムを拒否してイスラエルから離脱した広河ルティの『私のなかの「ユダヤ人」』、独りだけ収容所から帰還したのち、三冊の高く評価された小説を書きながら不意の自殺を遂げてしまったアンナ・ラングフェスの小説『砂の荷物』、朴壽南の『もうひとつのヒロシマ――朝鮮韓国人被爆者の証言』、軍事政権下のチリで民衆の歌の運動に取り組んだビオレッタ・パラの『人生よありがとう――十行詩による自伝』、そして久保の絶筆となったローザ・ルクセンブルグの『ロシア革命論』等々。

 これらの本を渾身の力をこめて紹介しながら、まさかこれらが「古書」としてしか存在していないところに、こんにちの社会、とくに日本人・日本社会の病理があることを、静だが激越な怒りをもって久保は指摘している。受難者たちが語り記録する20世紀という時代が廃墟にほかならないとすれば、それを忘却したり、なかったかのことのように振舞ってわたしたちが生きようとするとき、21世紀もまた廃墟にしかなりえないだろう。

 久保は本書で、廃墟に討ち棄てられようとしている「古書」をひとつひとつ丁寧に拾いながら、それらをいわばわたしたちばよりまっとうに生きるためのメートル原器として提示した。そのメートル原器には、それをあてがえばたちまちにして自分の生の厚かましさが白日の下にさらされるような鋭さがある。だが同時に本書は、生きることや学ぶことの根源的な愉しさと悦びを分かち合わせてもくれる。繰り返し波に洗われて丸くなった石のようなやさしい手触りが随所にある。桂ゆきの『狐の大旅行』や佐々木たづの『ロバータ さあ歩きましょう』、ディアーヌ・ドゥリアーズの『恋する空中ブランコ乗り』、花崎采?の『中国の女詩人』などを紹介する著者の文章からは、群れ咲く子どもたちの、なにものにも代え難い自由さをそのままにみつめるようなやさしいまなざしが伝わってくる。

 末尾の人名・作品名作索引も、本書を手がかりに「古書発見」に乗り出そうとする読者にはたいへん便利だ。本書で紹介されている本を読み合う機会があるといいと思った。またこれらの「古書」がひとりでも多くの人に知ってもらえるように、紹介されている本のテキストを、著作権の年限の切れたものからインターネット上に保存し公開することが考えられてよいのではとも思った。小さなメディアの可能性は、まだまだ汲みつくされてはいない。