書 評 黄英治著 『記憶の火葬――在日を生きる いまは、かつての〈戦前〉の地で』 |
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◆「民族時報」 2007年8月1日(1118号) 〈在日〉の記憶を葬ってはならない 林 浩治(文芸評論家) いまや韓流ブームの陰に隠れ、在日朝鮮人の歴史も文学も忘れ去られようとしている。あまつさえ、「北朝鮮」バッシングの嵐のなかで、在日朝鮮人の国籍とは無関係に、「〈在日〉=北朝鮮?=悪」的なイメージが日本人の中に植え付けられている事実もぬぐえないだろう。 われわれは、一九七〇年代に李恢成や金鶴泳が華々しく日本文壇にデビューした頃とは明らかに異なる雰囲気を感じざるをえない。逆境の中で光を放つ在日朝鮮人文学は、閉塞(へいそく)した日本文学に風穴をあけ、朝鮮問題の理解者を生んでいった。しかし時代の流れは、新たな理解者を生みつつも、一部の無理解者を「歴史修正主義」という排外主義にまで育ててしまった。 現実はどうだ。日本国に生まれ日本に育った〈在日〉は充分に市民としての義務を果たしていても、選挙権を含む権利の多くをはく奪されている。 黄英治の『記憶の火葬』はわれわれ日本人が忘れ去ろうとしている、まさに火葬されようとしている在日朝鮮人の記憶をよみがえらせるための記録である。黄英治文学はある意味告発の文学であるのだが、少しも押しつけがましいところがない。黄英治自身が被害者意識の沼にはまり込んでいないからである。 黄英治文学の底辺には、自己に対する「畏(おそ)れ」がある。人間である以上どんなおぞましいことでもするだろうし、どんな恥をも忘れ去るだろう、という自戒がある。在日の不遇を嘆くのでなく、むしろ日本で暮らしている「特権性」「地球的な不平等と抑圧の体系」の受益者としての位置、加害者として自己認識を見せているのだ。加害者としての自己を恥じる精神が底辺にあるからこそ、その告発も際だって強靱(きょうじん)なのである。 したがって表題作「記憶の火葬」も在日朝鮮人の苦労話にはなっていない。主人公は在日一世である父の死を迎えて、父の生涯を振り返りながら、忘れてはならない歴史の記憶を反すうしている。父の生涯は在日朝鮮人としては恵まれたほうだったろう、誤解を恐れずに言ってしまえば、幸せな生涯と言えるかもしれない。 しかし、日本社会は〈在日〉一世朝鮮人の記憶の火葬を続け、その存在を亡き者にしようとしている。作者の父親のような名もなき在日朝鮮人たちは、生きることによってのみ、この差別と侮蔑(ぶべつ)の日本社会に抗(あがら)ってきたのだ。彼らの生を記録し続けることには意味がある。父の記録は、この在日の家族の記憶そのものであり、個別的で多様でありながら普遍的な〈在日〉の歴史の優れた文学的表出なのである。 「記憶の火葬」は作品中唯一の小説であり、この他の掲載作品は、読みようによっては、その長い解説であり補足と言える。そこには彼の文学観があり、真摯(しんし)な人生観が見える。 願わくば今後、文学活動の中心に小説をおいて欲しいということだ。文学的論客は、優れた作家として活躍してこそ、その刃を鋭く研ぎ澄ますことになるだろう。 ◆「朝鮮新報」 2007年8月22日 暗闇からの飛翔の記録 卞 宰洙(文芸評論家) 本書はT「記憶の火葬」、U「在日を生きる」、V「壊れた世界の片隅で」、W「書評」の4部からなっている。 Tで著者は、祖父母・外祖父母にまでさかのぼって、親族をも含めての出自を、執拗なほどまでに追求している。だがそれは決して“自分さがし”の類ではない。在日2世である自己の民族的アイデンティティー(主体性)を獲得するための、暗闇の中からの飛翔ともいうべき精神的営為なのである。そのために、出自の解明が、朝鮮の植民地を善事とし在日同胞の同化を政策としてきた歴代の日本の政府に対する果鋭な告発となっている。さらにいえば、「北朝鮮バッシング」で“草の根ファシズム”を扶植して戦争する国をめざす安倍政権が、不法に在日同胞の生活を脅かしている現実を直視し、過去が現在に襲いかかることの恐ろしさを知らしめている。 Uでは、著者は在日における自からの生存価値が、祖国と民族を分断の苦痛から解放するところにあると明言している。ここから、在日同胞に対する差別と蔑視の歴史的・社会的根源を明晰な論理をもって抉剔し、異なる民族の友好的共生を拒絶する排他的風潮が拒否される。さらに論を深めて、祖国と民族の分断が、現時点において、差別と蔑視を生み出している要因の一つであることを論証している。それでは、在日は差別と蔑視にどう対処すべきなのか? 著者はオーセンティック(正統的)に、同化を拒み民族的矜持を抱き、分断克服の視野に立つことこそが差別と蔑視を克服する鍵であることを、自身の体験にもとづいて明らかにする。わが子を、人格の形成と民族的主体性の確立に教育目的を朝鮮学校に進学させてためらわないのは、こうした信念から生じている。 Vにおいて、博覧強記の著者は、E・サイード、A・メンミたち10数人の識者、文学者の所論を援用しつつ、在日の発想から、ブッシュ・ドクトリンの残虐を完膚なきまでに批判している。太平洋戦争時の米国が、日本の主な都市をほとんど焼き払い広島・長崎に原爆を投下した、著者のいう「なぶり殺し戦争」の延長線上に、ブッシュ政権の「対テロ戦争」があることを克明に論証し、それが「〈アメリカ帝国による戦争の時代〉」をもたらしたことの非人道的残忍を糾弾している。ここまで米国の戦争犯罪を追及するのは、第2次朝鮮戦争が起こりうるという危機感からである。 Wの書評は、「韓国」および日本の識者と作家に詩人の著作12冊と、在日の著者によるもの12冊がとりあげられている。それらは、論説、詩、小説、文学史、文芸評論、歴史書、写真集、手記、ルポルタージュ等々、多岐にわたっている。このことは著者が有能な書評家であることを証している。対象書物のほとんどが在日と深かかわっているために、一読に価するものばかりだといえる。 統一運動と在日同胞の人権擁護のたたかいに身を挺する著者の実践活動の過程で生み出された本書は、在日にとって貴重な記録である。多くの読者を得ることを願ってやまない。 ◆「社会評論」2007年秋号 複雑を、快活に 小沢信夫(作家) (前略)本書は(略)『黄英治著述集その一』でもあるだろう。内容は四章に分かれ、Uは論考、Vはエッセイ、Wは書評。そしてT章の四篇は作者黄氏の一家の物語です。小説であり、記録であり、論考でもあって、それらをミックスした新機軸だぞ、と、いえばいえるかもしれない。本書全体がいかに有意義であるか、の論証は、他の方々がなさるだろう。もっぱらT章に、私はこだわりたい。 表題作「記憶の火葬」が二〇〇四年の労働者文学賞小説部門に入選したときの、私は選者の一人です。記録だの評論だのの部門ではないのだからね。しつこく念を押します。これは小説です。 小説とはなにか。風呂敷のようなもので、なんでも包める。事実べったりの記録から、時空をこえた空想奇譚から、わずか数百時から、何千何万枚まで。これは小説だぞ―と気合をかければ、たぶん小説になるので、その気合とは、自他の客観。迫真性。この二つに尽きると、私は思う。 父の死を迎える三男一女の、それぞれの立場の変遷。晩年はボケてもいた父が「帰る」といって自家をでる。どこへ帰る気だったのか。語ろうとしなかった父の来し方。それやこれやを客観化する。自他を批評的に捉えるはりつめた努力。そこから迫真性がたちあがる。作中人物たちが、それぞれに歴史的時間を生きてきたことの。 こういう作品にであうと、小説とはこんなものという通念によりかかった作品の類が、ドッと退屈になる。他者を攻撃して自分を甘やかしている作品などは、小説の風上にも置けない気がしてくる。唐突ながら総じて申せば、われら日本人は歴史感(観ほどでなく)抜きに今日ただいまを暮らしている、のほほんとシアワセな集団のようでありますなぁ。本篇を入選に推したゆえんです。 つぎの「智慧の墓標」は、祖父母の探求が主題で、前作から必然の展開でしょう。旅券を申請するべく、父の本籍地より戸籍謄本をとりよせたことから、父方の祖父母の姓名をはじめて知る。つとに故人で、写真もない。なにもわからない。と自覚すること自体に、ドラマがある。母方の祖父母は幼時から親しんではいたが、一筋縄ではない来しかたを率直に吐露するとともに、資料と推量をまじえて祖父の来歴をたどりなおす。その祖父母の墓は正面に「東莱 鄭家之墓」、側面に戒名・俗名・通名を列記する。その文字の意味を、あやまたずに受けとめようと心に刻む。 以上、まさに小説的主題ではないか。そうです。長篇的課題を、あえて短篇に把握する筆力と迫力が、この作者にはある。いきおいやや前のめりになる。くわえて、読者のおおかたが、私をふくめて無知なことにも無自覚な日本人どもにつき、論考も解説も、ぶたないわけにはいかないではないか。 その事情は、「横取りされた過去」(一)、(二)に至って、いよいよ顕著になる。外国人登録原票なるものがある。一九九九年の法律改正でその写しを請求できるとなるや、作者はすぐに自身のそれを入手した。なんとさまざまな発見があることか。国籍が朝鮮から韓国へ変更された時期。指紋押捺を強要された時期。その跡がいまは黒く塗りつぶされている。自分の顔写真が八枚、十四歳から四十一歳までの変化を、バッチリ把握されていた。また家族六人の在留資格が年齢差で分かれていたこと等々「ややこしい説明が必要になるのだが、在日朝鮮人とは、そうした説明を必要とする、帝国主義―植民地主義が生み出した、極めて複雑な存在なのだ。」 その複雑さを、作者はかなり明快に語ってのけるのだが。それでも読みやすくはない。創氏改名が一九四〇年二月から半年間の怒涛の強要だったことも、私はもっと以前からの気がしていた。ことほどさようにこっちが無知につき。 本人が知らずにいたことさえ外国人登録原票は記録していて、つまり過去が横取りされている。アボジとオモニ、父と母の原票には十数葉の顔写真が、作者未生の若い時分のものさえある。ただし、在日二世のオモニの生地が、韓国のアボジの生地とおなじとか、スカも掴ましているのだった。 T章だけ、という前言をひるがえします。U章のうち「中原中也『朝鮮女』、尹東柱『序詩』再読」が、よく知られてる詩が素材で取りつきやすい。論旨懇切で、中也の、つまりわれら日本人ののんきさ加減がよーくわかります。立ち読みするなら、ここからどうぞ。 著者の文体は、「極めて複雑な」主題と格闘しながらも、平明で、しかも快活で、これは貴重な資質だ。ときに小説を試みてもらいたい。くだくだした描写なんかが小説の核心ではありません。あくまで自他の客観、そして迫真性。すると論評の力瘤よりも、あんがい遠くへ小気味よく届くかもしれませんよ。 ◆「月刊労働組合」 2007年9月 原 均 北朝鮮は非人道独裁国家で、朝鮮総連はその手先で、もう一方の韓国の韓流ブームで親しみがあるが、靖国神社や竹島問題などにはヒステリックに反応する。…普通の(つまり商業マスコミの情報だけを洪水のように垂れ流されている)日本人にとって、朝鮮問題とはこんな印象だろう。 「日本社会で、朝鮮半島分断の根本原因が日帝による朝鮮植民地支配にあったとの認識は皆無だ」という本書の指摘はそのとおりである。そして、在日朝鮮・韓国人がなぜ在日なのかという疑問も、多くの日本人にとっては考えることもわずらわしい、自分に無関係な昔のできごとと思われている。 昔話ではなく、今の在日朝鮮・韓国人がどのように生きているのか、そして私たちは現在の情勢をどのように考えればよいのか? その回答が本書にある。 この本は、著者の最近10年の文章をまとめたものだ(「月刊労働組合」掲載の2論文も掲載されている)。教科書的ではなく、前半部では自分の家族の生き方を私小説風に記述している。 著者は父(在日1世)の死を機に、父が語ろうとしなかったその生い立ちを調べ、母(在日2世)や日本に帰化した兄姉、さらには筆者の子どもたちを紹介する。そこには日本人の想像の及ばない在日朝鮮・韓国人の家族像が凝縮されている。 かつて在日朝鮮人は日本の最下層労働を担わされてきた。それはほとんど自営的あるいは請負的な労働社会だった。筆者は敢えて触れていないが、日本の労働組合は平和や労働条件改善を追求しながらも、これらのマイノリティ(少数派)にほとんどアプローチできなかった。 ところが、それだけではない。筆者はそのようにマイノリティとして疎外されてきた在日朝鮮・韓国人も含めて、その後のベトナム戦争やイラク戦争において「わたしたちは、ひとつの強大な加害者集団のなかにほうりこまれている」と看破する。 著者は元・在日韓国青年同盟委員長で、現在は韓統連(在日韓国民主統一連合)宣伝局長を務める。その視点は鋭いが、本人はいつも温和な笑顔で、妻への感謝を口にしている。本物の闘士とはこういう人物だと思う。 ◆「都障教組新聞」 2007年9月25日 いま私たちは、かつてなかったほど大量の、朝鮮半島にかかわる分裂した「情報」を押しつけられ続けている。一方は好意的な「韓流スターとグルメ」であり、片方は扇情的な「北朝鮮バッシング」である。後者には、在日組織の朝鮮総連への誹謗中傷や攻撃も付随している。 そのせいで、韓国と北朝鮮に関して、いっぱしの事情通になったような、へんな錯覚におちいっていたと、本書を読んで、深く考えさせられた。 本書は、在日朝鮮人2世の著者が、かつての植民地・朝鮮から戦時強制動員で日本に連れてこられた1世の父を後世へ送ること、また、家族をつくり、子どもたちを朝鮮学校に通わせるまでのさまざまな出来事。そして「かつての〈戦前〉の地になりはてた」日本社会、アフガン・イラク・パレスチナなどでの戦場の増殖と、地球上のいたるところ場所を問わぬテロのまん延にのたうつ世界にあって、すさもうとする心を、歴史に根ざし、平和と平等に軸足をおいて、重心を低くし、平衡を保とうとする在日朝鮮人の日常生活に即した苦闘を記録している。 それにしても知らないことばかりだった。いや、知ろうとしてこなかったといったほうが正確かもしれない。マスコミが垂れ流す「情報」よりも、すぐ隣に暮らす在日の人びととの相互理解が、実はいま、切実に求められている。 表題作の「記憶の火葬」は、過酷な過去を語らぬままに死んでいった父の記憶を、みすみす火葬場の煙突から大気へと放出してしまった著者の、大きな悔いがモチーフとなっている。また、印象的なのは、その父が一時的に痴呆になり、家族が右往左往する場面だ。こうした問題をかかえている同僚は多いだろう。この作品は、両親を送る年齢になった者たちの、同時代の記録でもある。 読み終えて強く思った。侵略戦争の時代、朝鮮やベトナムの戦火を元手に高度成長したあの時代、市井あり、社会をつくり、子どもを育てた、私の祖父母や父母の〈記憶を火葬してはならない〉と。 在日朝鮮人のように、この社会のマイノリティである障害児の教育にたずさわる仲間たち、みんなに読んでもらいたい本だった。 (S) |
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