書 評

高木 護 著 『爺さんになれたぞ!』
 


◆『朝日新聞』2004年5月30日
                                   評者=種村季弘(評論家)

 朝は三時に起きる。時間をかけてのんびり、横浜の自宅から都内の仕事場へ。七時頃仕事場に着くが、仕事らしい仕事はしない。昼になると近くの食堂で焼酎のお湯割り三杯。夕食はさすがに粥か雑炊。

 戦後六十年放浪を続けてきた詩人が、七十歳を越えて「爺さん」になった。爺さんは放浪生活で欲気も脂気もすっかり脱落しているから仙人に近い。仙人も達人になると深山幽谷にではなく、都会のド真ん中に生きているのだ。

 なんの役にも立たない爺さんはだんだん世間の目から見えなくなってしまう。あげくは、ことばだけになって爺さんの「生活と意見」が放浪の日々に出会った坊さんや忍者や、かと思うと無銭飲食常習詐欺師や山中おこもりのご同類の思い出とともに語り出される。羽化登仙の足跡一歩一歩にことばの蓮華が咲く。

「これといった者になれなくても、爺さんになれたら、それでよいではないか」





◆『交通安全ジャーナル』2004年6月号

   ゆっくりのんびり生きる 力の抜けた老人力

 本誌に「随筆・人間だから」を連載している高木さんが、こんなに数奇な人生を送ってきた方とは知らなかった。

 戦争中に罹った熱病の後遺症で定職に就けなかったと言うが、今までしてきた仕事が、なんと、山番・伐採手伝い・日雇い土方・炭焼き・闇市場番人・トラック助手・ちゃんばら劇団の斬られ役・古着屋の手伝い・商人宿の番頭・ジガネ掘り・飯場の人夫・沖仲士・コークス拾い・浮浪者・ニセ坊主・ニセ占い師などなど……というから、すさまじい。といっても彼の放浪は、元気な若者の放浪とは違う。ぶらぶら・ふらふら・よろよろ・へなへな・ふわふわ・ゆらゆらとしたものなのだ。

 そんな高木さんが七十歳を超えた。立派な爺さんだ。いや、そんなに「立派」ではないかも。相も変わらず、ぶらぶら・ふらふら・よろよろ・へなへな・ふわふわ・ゆらゆらと生きているから。

 今は定住している横浜の家から、大田区あたりの仕事場にしているアパートに出かけ、帰ってくるまでのある老人の一日。本の体裁はそうだが、その合間合間に挿入される、彼が今まで出会った人たちの言葉や思い出が優しい。

 例えば、ある巡査部長は、「人間なら、人間らしい目を持たねばならない」と語る。曰く「目はないがしろにすればするだけ、濁ってくる」。曰く「目は、自分の何かを見極めるためにある」等々……。

 また山道で出合った小男は、「人とは何か」「爺さんとは何か」「人のみちや人としての道理」を説く。日常のふとした場面で、行商の爺さん、坊さんなどさまざまな人の言葉が思い出されてくるのである。なかでも「急いで行っても一日は一日、ゆっくり行っても一日は一日ばい」と教える彼の両親の言葉には、感動する。

ぶらぶら・ふらふら・よろよろ・へなへな・ふわふわ・ゆらゆら生きてきた高木さんは、爺さんになってやっとみんなと同じ処に立ったことが嬉しいように見える。だって高木さんは生まれたときから爺さんだったのだから。

これは、超自然体で年を取ってきた高木さんが提案する「老いの捉え方」を哲学する本なのだった。