◆『朝日新聞』2006年7月18日
加藤周一 「夕陽妄語」
江藤文夫(本名、山口欣次、1928-2005)は急に私の世界から消えた。するとその跡に穴があき、その穴は時がたつと共に次第に大きくなった。それは今私が彼の意見や提言をもとめようと思っても、彼がもはやそこにいないということでもある。余人を以ては換え難い。
江藤文夫とはどういう仕事をした人なのか。亡くなった直後にかねて親しかった弟子=友人がその仕事を中心にして年譜を作った。その見事な年譜によれば、彼の多面的な仕事の全貌を概観することができるだろう。仕事の全体を集約するような主著一巻というものが、彼にはない。しかし数冊の単行本を刊行し、無数の短文を雑誌、新聞などに発表した。文筆業はあきらかに彼のなし遂げた第一の仕事である。
第二の仕事も、そこに投入された熱意と労力において、またその成果において、第一のそれに劣らない。すなわち教育である。成蹊大学文学部での講義20年(映像論、思想的・文化的諸問題)。その教場の内外で熱心な学生や元学生が山口教授から受けた影響は大きい。そして第三に倦むこと無き文化運動の組織者として活動した。例えば山本安英の「ことばの勉強会」や「かわさき市民アカデミー」の組織を支えたのは、おそらく誰よりも江藤だったろう。その三つの仕事について私は短い文章を作ったことがある。
しかし今では、著作・教育・組織に加えて第四の領域にも注意しておきたいと思う。それは会話、殊に雑談である。彼は常に話題の豊富な話し手であったばかりでなく、相手の言ったこと及び言おうとしたことを、ただちに正確に理解するすばらしい聴き手でもあった。私は彼との会話を愉しみ、そこから多くのことを学び、江藤文夫の代表的な作品は、彼のさりげない雑談ではないかと考えている。
もちろんそれを今再現することはできない。すべての会話は「一期一会」である。話し手の聴き手と、二人の人間が役割を絶えず交換しながら作る空間は、特定の場所で特定の時間におこるすべての出来事のように、一回限りのものだ。人生の全体のように。記憶をよびさますために速記録やテープは役立つにちがいない。しかし再現されるのは、過去の出来事の記憶であって、その現実の全体ではない。一度失われた現実を回復することはできない。
しかしもう一つの、時空間を越えて生きてゆく現実もある。それは会話のなかで語られた「ことば」の現実、無数の短文の中に散りばめられた「思想」の現実、プラトンのいわゆる「イデア」の世界の現実である。
江藤を知ること深い四人の弟子=友人、井家上隆幸、石原重治、藤久ミネ、鷲巣力の四氏は、今『江藤文夫の仕事』全四巻を編集し、その第四巻(1982-2004)はすでに刊行された。編集は著者単独の著作を別として、発表された文章を年代順に並べる。その第四巻は著者最晩年の仕事の集成である。
この本を読んで私は彼との会話を実にいきいきと思い出した。文章の中に散在する多くの観念は、私が彼の口から直接に聞いた観念であり、会話の中に流れていた思想はそのままこの本の文章に一貫している。今は亡き江藤文夫という人物の仕事の意味を知るために、彼との会話が最良の経験であるとすれば――それはもはや繰り返すことができない――、もう一つの同様に有効な方法は『江藤文夫の仕事4』を読むことである――そのページは今われわれの眼前にある。
内容は驚くべき多面的である。同時代の重要な社会現象に触れながらジャーナリズムを論じ、木下順二から井上ひさしに至る現代劇を分析して「ことば」の役割を強調し、映画を語ってはチャップリンや木下恵介や小津安二郎からそれぞれ異なる視点からなる異なる問題を抽き出している(フィクションと現実、反戦主義の一貫性、戦争経験の二面性)。
しかしそれだけではない。彼の仕事が私を惹き付けるのは、その表面が多面的だからではなく、彼の多面体に中心があり、その中心が動かないからである。彼自身の言葉を借りれば「戦後文化・戦後社会のありかた」に対する「問題関心」(『江藤文夫の仕事4』、158ページ)。それを自分の眼で見ようとする強い意志。溝口健二が旅行にカメラを携帯することを嫌ったのは、対象を自分の眼でよく見なくなるからだ、という意味のことを彼は書いている(同上、58ページ)。
私はこれに賛成する。江藤が溝口を引用したのは、ジャーナリストと現場との関係を論じた文章においてだが、観察者は必ずしもジャーナリストではなく、対象は必ずしも事件でなくても、同じことが言えるだろう。わざわざカメラを持ち歩いて観光絵はがきの写真を模写するのは、芸術家の仕事ではない。私は江藤の文章を読むと背景に同時代人の心臓の鼓動を感じる。その理由は同じ事件を経験したからではない。そうではなくて、同じ事件――たとえば15年戦争の以前と最中と以降――に対する反応が、必ずしも私自身のそれと一致しないが、私にとって理解可能であると感じるからである。
江藤は戦時下の中学生であった時のことを思い出していた。中国戦線から帰ったばかりの若い教師が中国兵の捕虜を日本刀や手榴弾で虐殺した話を得々と語る。その時の嫌悪感を覚えていると書いた後に続けて、その「嫌悪感は、あるいは戦後になって記憶に付加されたものではないのかと考えると、いまさらながらゾッとする」とつけ加えていた。「面白おかしく語られた話を、同じく面白おかしく聞いたのであったとしたら、その少年の心とは一体何であったのか」(同上、131ページ)。
この挿話の後半、嫌悪感がなかったら云々は、自分の眼で過去の経験を見直さないかぎり、決して見えてはこなかったはずである。いわんやそこから、戦争を否定しながらも軍隊生活をなつかしむ小津映画の主人公たちへの鋭い注目へつながってゆくことはあり得なかったろう。
そういう微妙な心の動きを現代人の中に見とどける眼を狭くは日本社会が、広くは世界が必要としていないだろうか。必要としているにちがいないと私は思う。それでも江藤文夫は死んだ。けだし「死」こそこの世でもっとも不合理な現象である。
◆『週刊読書人』2007年9月21日
評者=藤竹 暁(学習院大学名誉教授・メディア社会学専攻)
“日本の悲劇”を繰り返さないために
聞きがきの味わいが漂う “みんな”に語ることの大切さを説く
▽江藤さんの仕事の魅力
私は江藤文夫さんの穏和な、そして熱のこもった語り口を思い出している。江藤さんと会うと、コーヒー一杯で最低2時間は話していた。語り手はもっぱら江藤さんで、私は教えられ、引き込まれ、相槌を打ち、質問していた。いつも私は聞き手であった。
江藤さんは“聞きがき”を大切にしていた。江藤さんは「聞きがきの方法」(『江藤文夫の仕事』2)という優れた文章を残している。語り手と聞き手が抱く共通の関心に触発され、展開する話し合いにこそ、「自分の内部に成立している小宇宙を突きくずし、その世界を外に向かって開いていく」作用が生まれる。それを聞き手は「聞きがき」として残すのである。江藤さんによれば、聞きがきは、語り手の思想に聞き手が参加することで結晶させる“綜合”と呼ぶにふさわしい作業である。
しかし私との話し合いでは、語り手と聞き手の関係は逆立ちしていた。私は語り手として、問題を論じることができなかった。江藤さんは聞き手の立場に身を置きながら、語り手として問題を展開させていた。私との共通の問題関心を論じ、発展させ、新しい展開を見出していたのは、江藤さんであった。もちろん私は江藤さんとの話し合いで、テーマの新しい展開の仕方を教えられ、調べるべき問題点についてヒントを与えられ、最後には勇気を鼓舞されたことは言うまでもない。こうした江藤さん独得の「話し合い」のスタイルは、私よりももっと親しかった人たちなら、江藤さんのごとく日常のこととして、馴染みのことであったろう。
江藤さんは密室での思考をたくさん重ねられたであろうが、他者との話し合いによって、その蓄積を開かれた思考として結晶化し、独得の味わいを醸しだした。ここに江藤さんの仕事の魅力があった。江藤さんの仕事には、聞きがきの味わいが漂っている。
▽共通の思いが流れれる
『江藤文夫の仕事』全4巻を通読して興味深かったのは、最初の仕事として冒頭に掲載されているのが「木下恵介の前進」(1956年5月、『江藤文夫の仕事』1)で、最後の仕事の一つと考えられるエッセーが「願い・意志・言葉――木下恵介の創造」(2004年5月、『江藤文夫の仕事』4)であることだ。江藤さんの仕事は、木下恵介で始まり、終わっている。
この二つの仕事の間には、半世紀の歳月が過ぎた。しかし二つの仕事には、共通の思いが流れている。江藤さんは一途に、戦争へとなだれ込んだ“日本の悲劇”を再び繰り返してはならないこと、そして戦時においては“口に出しては言えなかったこと”を今こそ語らなければならない、と説いている。江藤さんのこの思いは、全4巻の仕事のいたるところで、熱っぽく語られる。
「木下恵介の前進」で江藤さんは『野菊の如き君なりき』の鎮守の祭の場面で、「あまりにも悲惨な戦争の体験を経た現在では、人々は生活の不幸のすべてを、逃れ得ぬ運命とは考えていない」と書き、それは日本人の「同じ悲劇を繰返すまいとする反省に結びついている」と論じた。『二十四の瞳』の木下恵介の主題には、「戦争への憤りがこめられて」おり、『二十四の瞳』を観た日本人の映画的体験は、この悲劇からの解放に向けられたことに、江藤さんは注目した。
「木下恵介の創造」では、『二十四の瞳』における戦時下の大石先生の狭いひと間の情景を選び出している。夫は出征中である。大石先生は石臼で小麦を挽き、長男は一升瓶で込めを搗いている。幼い弟妹は、くず米を拾っている。長男が早く中学に入って予科練を志願したいと言うのに、母親の大石先生は「命を大事にする普通の人間」になってほしいと、強く反対する。そんなことをいう母親は一人もいない、と述べる長男に、大石先生が言った言葉に江藤さんは注目した。「口に出して言わないだけじゃ、みんな心じゃそう思っとる」。この言葉は、「原作に忠実な『二十四の瞳』の、原作には見えなかった母の科白である」。これは「尋常の改作ではない」と、江藤さんは指摘する。親子の間でもなかなか口に出せない言葉を、木下はこの映画で、母親に語らせた。
▽戦争忌避の意思
戦時下の1944年に公開された木下恵介の作品『陸軍』では、田中絹代の演ずる母親が息子の出征を送るショットに、木下の「確固たる戦争忌避の意思」を江藤さんは見ている。「この時の、蒼黒く貧血した田中の顔と、ラストシーンで隊列のなかに息子を見出した瞬間の、パッと明るく輝く彼女の表情とを、対比させて見ればよい。」軍の要請で作った戦意高揚映画『陸軍』を、「戦争忌避の映画に変えた木下にして為し得た創造行為であった」と、江藤さんは言う。『陸軍』のラストシーンでは、母親は「息子の無事を祈って一人屹立する」。しかし『二十四の瞳』では、大石先生は家族に戦争忌避の言葉を語っている。
江藤さんは言う。「戦時下の“一人”を十年後に木下は“みんな”にした。」木下の創造性を論じながら、江藤さんはみんなに語ることの大切さを語っている。それは江藤さんの半世紀におよぶ仕事を貫く熱い思いである。
◆『月刊 現代』2007年2月号
評者=池内 紀
肥大するメディアの厄介さ、恐ろしさ
江藤文夫という人がいた。本名はべつで、もっぱらこの名前で書いた。『スター』『チャップリンの仕事』といった著書がある。聞き書きをまとめるのも上手だった。シンポジウムや講座や勉強会を企画して、ときには何年にもわたり、ねばり強く継続した。大学で教えていたこともある。
そんなふうにおいと、なんだか口八丁手八丁の才人を連想しそうだが、ハデやかに立ちまわって、めだちたがるタイプでは決してなかった。そのたぐいとは、およそ反対の人だった。意味があることであれば無報酬でもいとわない。裏方、あるいは縁の下の力持ちを買って出る。個人の力とともに集団の運動を大切なことと考えていた。ただし、号令のもとにうごくものではなく、個々人がそれぞれの考えから参加する集団である。
映像やメディア、マスコミ論が専門だった。まさにいま最盛期といった分野だが、江藤文夫は半世紀あまり前から、これを専攻してきた。映像やメディアやマスコミを論じられるなどと、まだ誰も思っていなかった頃、映画や新聞やテレビをとり上げ、考える手がかりとし、批評の対象にした。この分野の開拓者だが、べつだん権威づいたりせず、先輩づらもしなかった。そもそも権威づいたもの一切を好まなかった。
著書になったもの以外にも、いろいろ書いていたはずだが、たいていが地味な雑誌や機関誌や会報だった。求められると意見を述べ、それが必要をみたしたとわかれば、自分の役割を果たしたとみなしていたのではあるまいか。とりたててまとめようとはしなかった。
2005年3月、死去。77歳だった。ついては散逸している文章を惜しむ声が起こったのだろう。「江藤文夫の仕事」編集委員会がつくられ、全4巻として刊行が始まった。ほんとうはもっと多くの巻数にしたかったのだろうが、地味な人の地味な著作集であって、我慢しなくてはならない。
まっ白な表紙の左に「江藤文夫の仕事1」とあって、中央やや上に1956-1965の数字。右下に著者名。その前に出た『江藤文夫の仕事4』も同じデザイン、数字が1983-2004となっている。右下の江藤文夫が、自分の生きた歳月と仕事をじっと見つめているかのようだ。
もっとも身近なメディアであるテレビをめぐっての一文の出だし。
「日本のテレヴィジョンは、戦争(第2次大戦)を体験していない」
2003.4の発表。テレビが登場して50年ということが、しきりに言われていた。50年といえば、ほぼ戦後史の歩みに重なるのに、テレビは戦争を知らず、おのずと1945年8月15日を「メディア体験」のなかに持っていない。
「戦後史の出発点となる日付を欠いているということの大きさを、あらためてかんがえてみないでもいいのであろうか」
意表をつく書き出しのあと、ゆっくりとした語り口調になる。戦争体験の世代だから“戦争を知っている”、体験していないから“戦争を知らない”といった安易な論議が横行してきた。安易という以上に「不可思議な主張」であって、そうしたなかで日本のテレビは「成長」をとげた。ただただ野放図に大きくなり、他のメディアを蹴散らして、いまもなおとめどなく肥大している。
「テレビジョン50年という時に、私は映画50年をあわせて思い浮かべる」
映画50年はまさに1945年であって、半世紀先だつ歴史をもっている。映画というメディアは戦前・戦時・戦後の時代認識を持ち、そのなかで映像がつくられてきた。ニュースやドキュメント映画にかぎらず、劇映画でも「劇的」の意味がテレビドラマとはあきらかにちがう。
「……対してテレビは、報道のメディアである。テレビドラマも、特に放送される映画でさえも、そのことから離れることはできない」
江藤文夫の語り口、また語ろうとしている方角がおわかりだろうか。歴史的日付を欠いたまま肥大するメディアのとちとめなさ、厄介さ、恐ろしさ。
テレビの現場中継が表層を撫でるだけで、いかなる「現場」でもなく、採録される「街の声」が、採録の方法しだいでどのような声にもなることを、誰もがうすうす感じている。だが、くり返し発信され、クローズアップで強調され、コメンテイターの「補足」がされるなかで、単なる報道が事実そのものにすり替わる。メディア産業からお茶の間へ「事実」が一方的に送られてくる。
右の分の「誰もがうすうす感じている」以下は、私が加えた部分である。江藤文夫はこの手のしたり顔した訓戒などしない。人が感じても考えなかったこと、考えてもせいぜい訓戒で終わるようなことには、手をかさなかった。この論者はつねに状況と正面から向き合って、その状況をもたらしたそもそもの根っこを考える。訓戒や警告はつつしんだ。それは論者の自己満足にとどまって、何ものも生み出さないからだ。
つねに客観性を失わずに語るためには、したり顔した意見は抑制しなくてはならない。客観性をつらぬいた上で個人的メッセージを伝えるには、よく見て、よく聞いて、その上で判断する手つづきが必要だ。むろん、それを自分に確認するだけの強い意志があってのこと。
2003.4、2003.12、2004.2と、数字とともにつづいてきた仕事が2004.11でとだえる。大切な人がまた一人いなくなった。
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