★この国は、最も守るべき力弱き者を守らなかった。
金田茉莉 著
東京大空襲と戦争孤児
―隠蔽された真実を追って
品切・重版未定
2002年10月刊
四六判上製 330頁
定価 2200円+税
ISBN978-4-87714-293-3 C0036
●目次
●書評
●関連書
東京大空襲の悲惨な実態や空襲で保護者を失った子どもたちの想像を絶する苦難の道のりを、多くの資料や貴重な証言をもとに再現。自らも戦争孤児である著者が、犠牲となった無辜の民衆への政府の無策・無責任ぶりを痛烈に批判する。
〈著者略歴〉
金田 茉莉(かねだ・まり)
1935年4月、東京・浅草に生まれる。
1945年3月、東京大空襲で一家全滅。孤児になる。
1986年8月、『母にささげる鎮魂記』草の根出版
1990年3月、『夜空のお星さま』YCC出版部
1997年7月、『焼け跡の子どもたち』共著・クリエイティブ21・戦争孤児を記録する会編
2001年7月、『平和のひろばを求めて』共著・ひろばの会編
(本書刊行時点)
書 評
◆『信濃毎日新聞』 他(共同通信配) 2002年12月8日
評者=鎌田 慧(ルポライター)
読了した後、67歳の著者にとって、どうしても書き残さなければならなかった仕事だった、との思いが惻惻と迫って粛然とさせられる。
1945年3月10日、東京大空襲で家族全員を失った著者が、自分の体験を軸に、聞き書きと官庁などの関係資料を渉猟して書き上げだ。伝えようとする執念が、行間からほとばしり出ている。
「私の場合学校へも通えましたし、親の遺体も見つかり、孤児のなかでは恵まれていたとつくづく思い知らされました」
著者よりも、さらに悲惨な体験がある。彼女と同じ「戦争孤児」たちのたいがいは、親兄弟の遺体とも対面できず、別れの葬式もないまま、身寄りのない「浮浪児」として、都会の底辺を這いまわった。
後年、著者は「三人の戦災孤児を育てた」という人物と会い、その消息を聞くと、三人とも精神病院に入っている、と答えたという。人間が枯れ葉のように焼き尽くされた空襲から、辛うじて逃れた少年や少女たちでも、餓死、病死、自殺、とついに生き延びられなかったものも多い。
あるいは路上生活者として生き延びたにしても、孤児たちは年少労働や売春を強制させられ、それらの悲惨によって、今なお精神を冒されているものもいる。
戦争の地獄は戦場ばかりのことではない。空襲、一家全滅、みなし子の発生、とストリート・チルドレンは、世界じゅうの現在に続いている。精神的な打撃と重大な喪失感は、これからあとである。
戦死者とその家族もまた不幸だが、それでも補償はあった。軍人恩給は本人が死亡しても、妻に支払われつづけている。ところが、同じ戦争によって一家全滅、あるいは疎開していた子どもだけが生き残ったにしても、なんの補償もない。
それらの悲惨は、伝えられなさすぎた。むしろ隠されてきた。それなのに、今また戦争を煽るものがいる。その声への返答が、この著者の訴えである。
◆『東京新聞』 2002年12月28日より
東京大空襲と戦災孤児の悲劇を調査し著書にまとめた金田茉莉さん
1945年3月10日朝。学童疎開から戻ると、焼き尽くされた東京が眼前に広がっていた。ごちそうをつくって待っていたはずの母と姉は遺体で見つかり、妹は行方不明に。「一人で生き残ってしまったの」。9歳だった。
10万人が一夜で死亡したといわれる空襲と残された子どもらの悲劇を詳細に調べた「東京大空襲と戦争孤児」をこのほど出版。史上最大規模の空襲でありながら追跡調査がなかった。遺体の多くが軍に焼却・埋葬されて家族の確認ができず、死者が失踪扱いになるなど実態は不明のまま。空襲による戦災者には補償もない。
「被害は隠蔽された。疎開中の子が孤児になるケースが多かった。国策だった戦争と学童疎開だが、日本の行政は何の救済措置も取らず、困窮した親戚へ孤児を押し付けた」
自らも親戚を転々とし苦労を重ねた。「孤児は結婚、就職にも差別が付きまとった。好きで孤児になったわけではないのに」
本は資料や孤児関係の本を探し歩き、手紙や交流を重ねた孤児からの聞き取りでまとめた。重い口を開く人もいたが「まだ話ができない」と号泣する人も。多くの元孤児が心に傷を抱え何も語らず老いていく。
「私はまだ恵まれている。『がけっぷち』を渡りきれなかった孤児も多い」。餓死、自殺。精神を病んだ孤児もいる。「報われずに死んでいった人たちにせめて光を当てなくては。同じ立場の子を出さないように」。埼玉県蕨市の自宅に夫と長男の三人暮らし。67歳。
◆関連書◆