★協同・共生の道を求め続けた一社会運動家の証言
金森昂作著
時代の証言
――協同・共生の道を求めて
2011年12月刊
四六判上製 350頁
定価 2200円+税
ISBN978-4-87714-421-0 C0036
●目次
●書評
三井三池炭鉱の炭じん爆発によるCO中毒患者の救援活動をはじめ、丸木位里・俊「原爆の図」をみる会、「抱きしめてBIWAKO」などの市民運動、さらに生活協同組合エル・コープなどにもかかわりつつ、激動する戦後の時代をイデアを求めて生き抜いた一社会運動家の貴重な証言。
〈著者略歴〉
金森昂作(かなもり・こうさく)
1933年4月京都生まれ。梯明秀に師事。三井三池CO中毒裁判闘争支援、「抱きしめてBIWAKO」市民運動、生活クラブ生協京都エル・コープ運動等に参加。2009年11月没。
(本書刊行時点)
書 評
●『季刊はぬるはうす』2012年vol.1 第36号
協働社会の「イデア」を追求した活動者の証言
評者=米田綱路(ジャーナリスト)
本書の著者、金森昂作は社会運動、市民運動、生協運動の現場を生きた活動者だった。1933年、京都に生まれた金森は、三井三池闘争の支援に入り、その後は長らく、坑内での炭じん爆発でCO中毒に罹患した労働者と家族の裁判支援に携わった。60年代半ばにマルクス主義哲学者の梯明秀に学びながら、活動の場を広げ、80年代には「原爆の図をみる会」や「抱きしめてBIWAKO」などの市民運動に参加した。同時に、大日本スクリーン労働組合の運動に関わり、90年代に入って京都でエル・コープを創設、理事や監事を歴任し、大阪東部生協のアドバイザーなども務めた。本書は、金森が2009年に世を去る前に、みずからの生涯を縦軸、時代を横軸として語った、語りおろしの記録である。
とりわけ関心を引かれたのは、金森が取り組んできた社会運動や市民運動の基底にあった、感性的な特徴と、それを源泉とする“金森思想”のなりたちについて語った部分だった。「協同・共生」といってしまえばそれまでだが、非常に感性的でしなやかな、彼のいう「イデア」の姿が本書から浮かび上がってくる。
1951年春、金森は大阪の池田高校へ転校したが、授業中、隣接する伊丹空港から朝鮮戦争の戦線へと飛び立つ軍用機を見て、「なんでこの飛行機、止められへんねん」と疑問を抱いた。直感的に「殺される!」と感じた。その5年後、ハンガリー革命に人類社会の「イデア」を見た金森は、ソ連軍によって革命が鎮圧されたことに、「イデア」の崩壊を感じた。人類の理想である真善美の三位一体が崩れ去るという、崩壊感覚に見舞われたのである。「つまり『イデア』を、最初はソ連によって、次にはピカソの『ゲルニカ』によって、木端微塵に打ち砕かれた」と金森は語っている。
三池闘争支援と、続いてCO中毒裁判支援を続けた四半世紀をとおして金森が出会ったのは、圧制や病苦に苛まれる労働者や家族たちの「幻のむら」だった。この表現からは、同時期、筑豊で炭坑夫や女性たちの聞き書きを続けた上野英信や森崎和江らが見たもの、すなわち「まっくら」の光、地底ゆえの連帯につうじる協同性への開眼が感じられる。
金森は「くらしの原型」とも、生きている人間の「ここで一緒に生きようよ、それに値するあなたよ」というつながりとも表現したが、それは先述の「イデア」が政治によって破壊されたあと、ようやく行き着いた、真の「イデア」の感受だったのではないか。孤独や痛苦、闇や病の恐怖に耐えながら、寄りそう人びとが織りなす、協同の姿こそが「イデア」だと感じられたのではなかったか。
孤独や苦痛から解放されたいという「絶望的自由の衝動」こそが、新たな何かを創っていく力の源泉になると金森は言った。彼はこの「イデア」を、受苦(Leiden)というドイツ語で説明している。自分自身、まだ「連帯」ということばしか出てこず、新たな「イデア」を表わすことばを創りだせてはいない。けれども、ことばの原初、始まりの場だけは、CO中毒裁判闘争によって示されたと感じている――金森はそう語った。「私は賃労働者の魂の原像を垣間見た」とも語っているが、そうした数々の表現に見られる彼の詩情が、観念的なものに偏せず、たんなる現場主義にも偏しない彼の思想を、いっそうゆたかなものにしたのであろう。
「だから私は『歴史のはじまり』というか、この連帯の輪のなかで、人間の絆というか魂の絆のなかで、『すべてはここからはじまるんだ』、ここからというよりも、この『連帯』の場所、この〈場所〉から、連帯が醸しだされるこの〈場所〉から初めて、新しい、質の異なった社会運動が生み出されるんや、と確信したんです。この『闇』をくぐり抜けない理論や、この『闇』に根ざさない社会運動っていうのは、以後私はなんかこう、『どうぞご自由に。邪魔はしませんけどね』と、すっかり無縁なものになっていったんです」。
この一文に、金森の思想がよく表れているように思う。彼のいう〈場所〉を揺籃として、市民運動の領域である「消費過程」、労働運動、組合運動の領域である「生産過程」という異なる領域が一緒になることができるのである。この二つの領域がそれぞれ「生活過程」を反省したときに、自分の本質存在としての「生命過程」の運動になっていくのだと金森は語ったが、新たな「イデア」は「闇」をくぐって、生命の思想へと逢着したのであろう。
この生命の思想から、金森は子どもの未来を考え、生協運動を支える協同を具体化した。人間のいのちの場、生活の中心・根本から「食」と「教育」の同在を実践したのである。
本書が生まれるきっかけを作り、編集を担った落合祥堯氏は「はじめに」のなかで、「金森さんのイデアは、人間と人間、人間と自然が支配と対立の関係でなく、協同と共生の関係からなる社会の方向に向けられていました」と書いている。まさしく本書は、協同社会のイデアを追求した活動者の「時代の証言」である。
●『図書新聞』2012.2.25
梯哲学にこだわり、梯哲学を乗り越えた地平へ
評者=境 毅(生活クラブ京都エル・コープ職員)
人文書院にいらした落合祥堯さんが、金森昂作さんの聞き書きをやっておられたことは聞いていました。それがこのような著書にまとめられて出版の運びとなりました。できればご存命中にできあがって、これをネタに話をしたかったと思っています。
まず本の内容の紹介ですが、目次ではなく、「はじめに」で落合さんが紹介している、もともとの企画が書かれた手紙の五項目の方がいいかと思います。
「一、1950年代/イデアの崩壊――ハンガリー事件とアヴァンギャルド。
二、1960年代/マルクス主義の思想原理――梯経済哲学と全共闘運動。
三、1970年代/賃労働者の暗黒の世界――三井三池CO裁判闘争。
四、1980年代/実在的生産過程の弁証法――市民運動と労働組合運動。
五、1990年代/生活協同組合エル・コープ運動。」
最初のハンガリー事件(1956年)は、当時の共産党の非合法活動にかかわっておられた金森さんにとってはショックな事件だったようです。これは日本共産党が六全協(1955年)で武装闘争の方針転換をした直後のことで、この事件について金森さんは詳細な証言をしておられます。私はまだ高校生で、写真誌『ライフ』で生々しい画像を見たくらいで、背景などの理解はずっと後になってからでした。共産党の非合法活動やハンガリー事件の経過についての語りは、直接経験のない私にとっては貴重な証言です。
金森さんとの出会いは、京都でもう一つの生協をつくろうという呼びかけで、1988年に協同組合運動研究会が始まったときでした。たしか呼びかけ人の一人であった宗接元信さんの紹介でお会いした記憶があります。以来研究会を一緒に企画し、また設立されたエル・コープの活動にも参加させてもらって、金森さんとはよく話す機会があったのですが、この本で口述されている過去の話は聞けずじまいでした。
ただ、三井三池CO裁判に関わっておられたことと、梯明秀に師事されていたことはなんとなく聞いていて、特に梯哲学についてはそれを自己のものとして研究会ではいつも展開されていたので、そのときにはつい反射的に反発していました。
亡くなられた後、研究会では追悼の研究会を二回持ち、金森さんの最後のことづけとなった〈里子屋運動〉について、絶筆となった「子どもが育つ・子どもと育つ・子どもを育てる」(本書末尾に「付」として収められている)を読み合わせました。そのときに、金森さんの言いたかったことがなんとなく理解できたような気がしました。
読み合わせをしていて、はっとしたのは次のところでした。「センス・オブ・ワンダー 子どもの心の底から突き上げてくるなにかあるもの。衝動と言っていい、その突き上げてくるあるもの。まだ言葉にならないあるもの。姿かたちのないあるもの。それは子どもの全身を揺り動かしてくる力。それは子どもを超えた基体的自然、自然をつくりだす基の自然、かたちもなにもない、感覚もできない、けれども確かになにかが在る。基体的自然から出てくるあるものがある――」(332頁)
読み合わせをしているときには、この基体的自然のことはよく分かりませんでした。しかし、これは金森さんが、ついに梯哲学を超えた地平に到達したのではないかという予感はもちました。現時点でなら、この基体的自然という考え方は、実は人間の社会関係がもつ協同という範疇に属するものではないかと思います。そしてセンス・オブ・ワンダーは実は感性の解放の問題の解明としてなされていたのです。その問題は先に次のように提起されていました。
「疎外された感覚を持った子どもたちの感性をどのように解放するのか。それがこの時代の大きな課題になってきています。
感性=対象的自然を取り戻すこと、感性=人間的自然を取り戻すこと。つまり感性的自然、感性的社会を取り戻すこと。解放すること。これが、現実の歴史の課題になっています。」(327〜328頁)
ランシエールにしたがって、感性的なものの分有という問題が政治の基礎にあると理解したときに、ここでの金森さんの提起は、既成の感性的なものの分有を切断できるような感性の解放を構想していたと見ることできます。
このような経過があったので、著書を手にしたときに、梯明秀についての記述に興味を持ちました。そこには次のように書かれています。
「梯に導かれてマルクスの『疎外』を私は学んできた。けども、梯の疎外理解は結局、疎外の構造を解説したにすぎない。疎外っていうのはですね。毎日毎日生きている人間のその『場所』で起こる事柄や。働いて、メシを食って、子どもを育てて、死んでいく人間の、毎日毎日の生活そのものが疎外の構造のなかにある。それは感性的な感覚的な事柄なんや。その『疎外』の場所に梯明秀はいなかった。だから感性的な直感と彼が言う場合の『感性』は、考えられた感性です。」(301〜302頁)
本書の証言は、いつも批判的問題意識を持った見地から生きた人間の記録として尊いものですが、最後の「付」は、梯哲学に囚われ続けてきたようだと私には思われた金森さんが、ついにそれを乗り越えた地平に到達した記念碑的労作だと思います。