大正から昭和を生きた、ある抒情歌人の生涯

古谷鏡子
命ひとつが自由にて
――歌人・川上小夜子の生涯


2012年2月刊
四六判上製 382頁
定価 2400円+税
ISBN978-4-87714-423-4 C0023

●目次
●書評



日の陽のうつろひに散りこぼす光よ風よ冬青き樫
――前田夕暮、北原白秋に師事し、戦後は文芸誌を刊行。また女人短歌会の創設に貢献し、和泉式部・『源氏物語』に傾倒、透明なもの、移ろいゆくもの、樹や空に心を託した女歌人の評伝。


〈著者略歴〉
古谷鏡子
(ふるやきょうこ)

東京生。東京女子大学日本文学科卒。
日本現代詩人会会員。
著書に詩集『声、青く青く』、『眠らない鳥』、『発語の光景』(以上花神社)
『入らずの森』(砂子屋書房)、評論集『詩と小説のコスモロジィ――戦後を読む』(創樹社)

(本書刊行時点)






◆『命ひとつが自由にて――歌人・川上小夜子の生涯』 ◆目次

T
 1 はじめに
 2 はじまりはどこにあったか
 3 「蟷螂の斧」
 4 「詩歌」 の頃のこと
 5 生家のことなど
 6 「詩歌」 から 「覇王樹」 へ
 7 「覇王樹」 の時代――変化する生活のなかで
 8 「覇王樹」 の時代――「友」
U
 9 大正という時代 77
 10 女だけの歌誌 「草の実」 を創刊する
 11 雛の会、 ひさぎ会のことなど
 12 会のこと、 奈良旅行
 13 出会い
 14 母親としての明け暮れ
 15 昭和七年という年、 離婚にいたるまで
 16 あたらしい生活へ
V
 17 「河内野集」
 18 「草の実」 の大会と 「多磨」 創刊記念歌会
 19 「多磨」 を読む
 20 「多磨」 の時代
 21 病牀にある日々を
 22 「多磨」 退会までに
W
 23 「月光」 の創刊
 24 ふたたび東京へ・「月光」 という歌誌
 25 「雲抄」 そして 『停れる時の合間に』
 26 外にむかって歩きだすということ
 27 「季節の秀歌」
 28 「季節の歌」 とふたたび 「雲抄」 のころを
 29 ある物語への旅
 30 『朝こころ』 の出版、 戦争の時代
 31 あたらしい友人、 鷹見芝香
 32 古河町へ疎開する
X
 33 戦後はどのように始まったのだろう
 34 雑誌 「婦人文化」 の創刊まで
 35 「婦人文化」 第二号、 そしてある青年の死
 36 さまざまな活動の只中へ
 37 「婦人文化」 を 「望郷」 と改題、 発行を続ける
 38 抒情の検証
 39 多くのひととの出会いのなかで
 40 「望郷」 七号の発行・和泉式部
 41 「望郷」 八号発行のまえに
 42 「望郷」 の最終号、 そして 「女人短歌」 へ
Y
 43 「女人短歌会」 設立のころ
 44 ふたたび 「月光」 のころを
 45 光る樹木
 46 「林間」 という歌誌
 47 終りの年に
 48 『草紅葉』
 49 歌のわかれ―母と娘の物語
 50 山梨県立文学館ヘ―番外編
 51 番外編をもうひとつ

 あとがき








書 評



● 『図書新聞』2012.6.23

 
女性としての母の生を視つめる
                              
評者=田中綾(近現代史短歌史)

 明治中期に生まれ、戦後の被占領期に急逝した川上小夜子。この女性歌人についての初評伝である本書は、短歌史、そして近代女性史と伴走している。著したのは、次女で詩人の古谷鏡子氏。女性としての母の生を視つめることは、著者自身の生誕の時空をも視つめることになり、執筆時には、混沌とした領域に踏み込むことへの懼れもあったことだろう。けれども。その懼れを乗り越え、「生きることと歌をつくることとがそれぞれ独立したふたつの道ではなかった明治・大正期の女の生きざま」(「はじめに」)を描き切った。読了後、読者もカタルシスのようなある達成感を共有することができる――そのような一冊である。

 文学に志し、福岡から20歳で上京した川口慶子(本名)は、歌誌「詩歌」の前田夕暮によって〈川上小夜子〉の筆名を得た。生前に『朝こころ』『光る樹木』の二歌集があり、没後、遺歌文集が刊行された。歌人小夜子については、木村捨録の回想録「私の中の昭和短歌史」(『林間』1977年連載)でその名を見ていたが、雨宮雅子による「川上小夜子」論(女人短歌会編『女歌人小論』短歌新聞社、1987年)は未読だったため、本書からはじつに多くのことを教わった。

 他方、小夜子とほぼ〈対〉のように語られる北見志保子については予備知識があった。高知県立文学館「『平城山』の歌人北見志保子没後50年展」の図録、また、佐々木基一の未完小説『停れる時の合間に』(河出書房新社、1995年)に、サロン中心であり面倒見よい「飛鳥女子」として活写されていたからだ。

 小夜子と、10歳ほど年長の北見志保子。二人は水町京子と女流歌誌「草の実」を創刊し、昭和初期には女性歌人の親睦会「ひさぎ会」に参加、そして戦後短歌史に名を刻む女人短歌会の設立にも貢献した。

 平井康三郎作曲による北見志保子の歌「平城山」は今日も親しまれているが、同じ平井により、小夜子の〈あづまより友は来たりて我が野良のまだ春浅く草もをさなし〉をはじめとする三首も歌曲「友」となっている。やはり近い関係性だ。そして、恋。歌人橋田東声の妻であった北見志保子は、12歳下の学生歌人浜忠次郎と恋愛関係となり、のちに浜と再婚した。小夜子も、夫とともに歌誌に参加していたが、10歳下の学生と出逢い、協議離婚を経て久城姓となった。
 最期を迎えたのも、運命的にも北見志保子の自宅だった。歌人クラブの会合で集まっていた北見宅で脳溢血で倒れ、そのまま不帰の人となったのである。本書が上滑りでない点の一つは、この二女性歌人の関係を辞書的に語るのではなく、短歌を引用し、互いの単純ならざる心の機微を引き出した点だろう。微妙な陰翳は短歌にこそ現れることがうかがえる。
 北見志保子の「平城山」が、毅然とした生と恋を貫いた女性の歌と称されるなか、小夜子には恋の歌はほとんど見られない。だが戦後、男女同権の流れのなかで、ふと来し方の恋が歌われたことがあった。

  みな人のふむ道ならぬわが道を死にするまでに来し境涯ぞ

  子らにまだ語らぬ哀楽の思ひ出もよみがへり来る若葉もゆれば

 〈姦通罪〉が女性にのみ問われた時代の母の苦しみ、哀しみの道は、娘には語られていなかった。いや、その機会は死によって奪われたのである。戦後という、女性にとってまさに新しい時代は、逆に戦前の小夜子の苦悩の道をまざまざと照射する。

 本書後半では、編集者として小夜子が精力的に仕事をしていたことが多く紹介されている。50歳で「婦人文化」(のち、文芸専門誌「望郷」)創刊。国文学者池田亀鑑の知遇を得て人脈が広がり、日本女子専門学校(現、昭和女子大)短歌部の講師もつとめた。女人短歌会の創設等でも、実務・人脈面で大きな存在であったという。そのような仕事を為した一人の女性を、著者は、8年にわたって書き続けてきた。小夜子晩年の一首。

  孤高とはおのれに言ひてなぐさむる言葉にてあれ言ひて見たきを




● 『西日本新聞』2012.2.26

 「女人短歌会」は1949年4月に誕生した。五島美代子、葛原妙子、斎藤史、森岡貞香らが流派結社を超えて参加し、折口信夫、池田亀鑑らが支援した。女性歌人による初の全国組織とされる。
 創立発起人の一人、川上小夜子(1896〜1951)は、福岡県八女市出身、熊本市の尚絅高等女学校卒。〈をみなごは人を恋ひたる嘆きさへ千年の史にかなしくのこる〉 〈有明の月とはかかる淡さかとガラスを透し身に浴びてをり〉など多くの秀歌を残した。
 本書は川上の初の評伝。川上の次女で詩人の著者が、前田夕暮に師事した出発点から2度の結婚、戦中戦後の活動などを記憶と資料によって丹念に跡付け、男性優位の歌壇で自らの場所を模索した川上の半生を描き出している。