◆『サンデー毎日』 2009年2月8日号
社会や歴史と結び合う音楽 評者=斎藤貴男
外国人登録証の指紋押捺拒否を貫いた訴訟で知られる在日3世のピアニストが、思いの丈を綴った。深い悲しみと、そこにこそ支えられた、大いなる希望に溢れた一冊だ。
植民地統治下の平安北道(ピョンアンプクトウ)に生まれた彼女の父親は、生涯を人間の尊厳とは何かを問い、それを侵し奪うものの正体を追及することに捧げた人である。
日本生まれの日本育ちで、特に取り戻さなければならないアイデンティティを感じることもなかった著者は、彼――崔昌華(チョェ・チャンホァ)氏――の裁判闘争に付き合いつつも理解できず、日本という国家というよりは、むしろ父親と闘っていたという。
やがて音楽の道に進んだ彼女は、押捺拒否者ゆえに再入国が認められない立場のまま、米国への留学を決意した。「すばらしい音楽には思想がある。たとえば」と、昌華氏はショパンの名前を挙げた。
ショパンがこの世に生を受けたポーランドは、大国の狭間で翻弄され続けた歴史を持つ。
独立運動に情熱を燃やす彼は、しかし、その才能を惜しむ周囲に押し出され、一路、音楽の都ウィーンへと旅立っていく……。
公立学校での日の丸・君が代の強制に反対している著者は今こそ、ショパンを思う。音楽の調べもまた、歴史と切り離されて存在し得るものではない。政治や戦争に翻弄され傷ついた魂の叫びではなかったか、と。
ショパンだけでも、もちろん朝鮮半島だけでもない。彼女の師である、ハンガリー出身のシェボックやシュタルケルだって、現実社会への発信と演奏することとをひとつにしながら、著者のピアノは、本物の音楽になるのだ。
崔善愛さんのショパンを聴きたくなった。
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◆『朝日新聞』 2009年1月24日 「ぴーぷる」欄
ショパンと同じ悲しみ 文・写真=高波 淳
在日韓国人ピアニストの崔善愛さんが、人権活動家だった父の故・崔昌華さんとの葛藤や音楽家としての心の軌跡を記した『父とショパン』を出版した。出版記念会で「ショパンは二度と戻れないかもしれないとの思いで祖国を離れた。その悲しみは、在日一世の父の悲しみだったとようやく思えるようになりました」と話した。 日本で生まれ育った崔さんは父の「奪われた民族性を取り戻したい」という強い思いがなかなか理解できなかった。指紋押捺を拒否したことで、一時は日本での永住資格を失い不安な日々を過した。「ショパンの悲しみの深さに気づき、朝鮮の悲しみが胸に迫るようになりました。
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◆『神奈川新聞』2009年2月16日
国奪われた悲しみ
出版社から父とショパンのことを書いてほしいと頼まれましたが、難しかった。親子で指紋押捺を拒否し、裁判で闘ったけれど、在日一世である父のような民族に対する思いが私にはなかったから。
日本を恨むのではなく、日本人が認めざるを得ないほど頑張れば大丈夫、と思っていました。でも、押捺拒否を理由に再入国を不許可とされ、ピアノの勉強のため米国に留学して日本の永住資格を失ったんです。再入国不許可処分の取り消しを法務大臣に求めた裁判は、最高裁で逆転敗訴しました。永住資格は後に回復しましたが……。
その間、1995年に父が亡くなり、皮肉にも、父の日本に対する気持ちが少し分かるようになりました。自分の言葉が届かない、そのやりきれなさ。一方で、留学して初めて、国を離れるのがどんなに寂しいことかを知りました。再入国不許可で日本に帰れるかどうかも分かりませんでしたし。
そんな留学中に偶然、手にしたのがショパンの書簡集です。彼はロシアなどの支配下にあった祖国ポーランドからオーストリア、フランスに逃れ、国を奪われた悲しみを表現し続けた。
「もうこの国には戻って来られないような気がする」というショパンの言葉は、人ごとではない。それは戦後に単身来日した父の思いとも重なりました。
在日は、日本人なのか韓国・朝鮮人なのかという究極の選択を迫られる。けれど、私が米国で出会った人々は、いろんなルーツを持っていて、それらが混ざって個性が生まれている。いわば、みんなマイノリティー(民族的少数派)なんです。在日も特殊なものではなく、普遍的な存在だと気付きました。
〈演奏活動の傍ら、求めに応じて平和と人権にかかわる講演を行っている。特に、君が代問題に関して話すことが多い〉
指紋の刑事裁判は、昭和天皇死去に伴う大赦で(訴訟を打ち切る)免訴とされました。天皇制が直接、自分にかかわってくるとは思っていなかったのに、そこから逃れられないと目覚めさせられた。この国の思想・表現の不自由さは、天皇制と関係があるのではないかと考え始めました。
日の丸・君が代が国旗・国歌として法制化された時、集会に呼ばれ、話をしました。ピアニストだということもあり、その後も君が代について講演を依頼されるようになりました。学校行事で君が代を歌わない人を処分するというのは、度を超していると思います。でも、発言するのは怖い。どんどん自分だけ浮いていくようで。
日本では、夫と妻が違う意見を持つのも悪いことのように言われがちです。しかし、自分の思うことを相手に伝えるのは、お互いにとって良いことではないでしょうか。説明することをあきらめてはいけないはずです。
私が日本に対して「これはおかしい」というのは、日本が嫌いだからじゃありません。自分が住んでいるこの国が、もっと良くなってほしいと思っているからです。それが私なりの愛し方、生き方です。
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◆『西日本新聞』2009年2月22日
民族性を奪われた者の悲しみ
文=諸隈光俊
父とは、指紋押なつ運動などを通じて在日コリアンの人権を訴え続けた故崔昌華さん。その社会活動家と、ピアノの詩人と呼ばれた作曲家・ショパンが、ピアニストであり、自らも指紋押なつを拒否し一時は日本での永住権を失った筆者の中で結びつく。「父の運動、そしてショパンの音楽の根底に、自分たちの民族性を奪われた者の深い悲しみがあることに気づいた」。本書は、筆者の歩みを縦軸に、昌華さんの活動や父娘の葛藤、大国のはざまで「祖国」ポーランドを離れなければならなかったショパンの人生を絡めながら、国家とは何かを問いかける。
北九州市小倉北区で育った筆者は、当時の外国人登録法に定められていた指紋押なつを拒んだまま、1986年に26歳で米国へピアノ留学し、在日コリアンの特別永住者としての資格を取り消された。昌華さんとともに裁判闘争を続けたが、実は「裁判はむしろ父との闘いだった。日本生まれの私には、一世で、取り戻すべき朝鮮の民族性を持つ父を理解できなかった」と打ち明ける。
音楽家としての道と運動との間で揺れた時期に、その父の言葉が道しるべとなった。「音楽家には思想がある。たとえばショパン」。19世紀のポーランドはロシア帝国などに分割統治され、ショパンはパリなどで活動する。だが心は常に「祖国」にあり、望郷や国家独立への切ないばかりの思いを曲に込めたことを留学先で知った。そういう音楽家がショパンだけではないことも。
美しい旋律の裏にある苦悩。音楽、国家、人権、思想。これまで別々に見えていたものがつながっていった。「世界のさまざまなところで、抑圧に苦しんでいる人がいる。愛すべき音楽も、国家とは切り離せない」。そして本書が「音楽ファンが社会問題に、社会問題に関心のある人が音楽の世界に興味を持つきっかけになれば」と語る。
全国で演奏会や講演会を行っている。演奏会ではショパンの曲をプログラムに入れることが多いという。曲の背景も説明しながらピアノに向かう。「聴衆も、彼の話に驚きます」。人権運動と音楽。かつては進路として相いれないように思えた二つの道が、今、ひとつになって続いている。
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◆『信徒の友』2009年3月号 「ほんのはなし」
演奏することと社会に発信すること 崔善愛さんにきく
「音楽家なんだから音楽に専念してはどうか」。崔善愛さんはしばしば周りの人たちにそのように言われるそうです。その善愛さんの著書『父とショパン』が昨年末に刊行されました。本書は言わば、こうした問いへの回答です。善愛さんの夫でありチェリストである三宅進さんが「すさまじい集中力と執念がこめられた本」と表現していますが、まさにそのような一冊です。 ● 『父とショパン』の題名のとおり前半は、善愛さんの父・崔昌華牧師について書かれています。1930年、日本の支配下にある朝鮮半島に誕生。中学三年生で植民地支配からの解放を迎えますが、今度はソ連軍が入ってきて、キリスト者だった崔昌華青年は拷問を受けます。54年、日本へ。神学校を卒業し、福岡・在日大韓基督教会小倉教会を30年余牧しました。強制連行されて炭鉱で働かされる朝鮮人たちの集う教会でした。 「父が牧師として目にしたのは、朝鮮半島でどん底の貧しさを経験した父がショックを受けるほどひどい在日同胞の暮らしでした。祖国を奪われ、労働力として日本に連れてこられた人々が戦後もなお、どん底の暮らしを強いられる。そして植民地時代の延長のように、日本に同化しなければ生きていけない。これはいったい何なんだという怒り、その奥にある悲しみが彼を突き動かしたのだと思います」 崔昌華牧師は、自分の名前の原語(朝鮮語)読みをNHKに求めた「一円訴訟」をはじめ多くの働きをしましたが、その根底に「悲しみ」があったと善愛さんは言います。95年、崔牧師が64歳で亡くなる直前に新聞記者に語った一言に思いが凝縮されています。「自分の人生は、日本人化されたメッキをはがしてゆく人生だった。本来あったはずの人格を取り戻すために」。 ● 「悲しみ」。これが本書のキーワードです。ピアニストである善愛さんは、ショパンの中に、父と同じ「悲しみ」を見たのです。それが本書の後半に書かれています。 きっかけは善愛さんが留学中にショパンの書簡集と出会ったこと。「ショパンの言葉に触れることで、『ロマン派』『ピアノの詩人』などという優雅なイメージは取り払われ、彼が激情し、ピアノに怒りをたたきつける姿が浮かび上がってきました。」 ショパンは1810年、ポーランドに生まれました。帝政ロシアの侵略によって国を失った彼は、国外に脱出します。そして1849年、パリで客死しました。愛する祖国を奪われた怒りや悲しみが、ショパンの美しい曲の底に息づいていることを、善愛さんは本書に記しています。 書簡集の中で特に善愛さんをとらえたのは、ショパンがポーランドを離れる直前に友に送った手紙でした。そこに「二度とこの国に帰って来られないような気がする」との一説があったのです。 善愛さんは、芸術大学でピアノを学んでいた21歳の時、外国人登録の指紋押捺を拒否しました。そして大学院終了後、アメリカに留学します。しかしその時の善愛さんは外国人登録法違反・指紋押捺拒否による「再入国不許可」という状況でした。つまりまさに「生まれ育った日本に帰れないかもしれない」という不安、苦しみ、悲しみのさなかにあったのです。この時、ショパンの手紙に出会ったのでした。 「音楽の調べもまた歴史・社会から切り離されたものではなく、政治と戦争に翻弄され傷ついた音楽家たちの心の叫びであった。ショパンを通して私はこのことをようやく知らされました」 ● だから今、善愛さんにとってショパンを弾くことは、彼の「心の叫び」「悲しみ」を表現することです。そしてこの演奏活動は、日々の生活の中で「おかしい」と感じたことに責任をもって自分の声をあげていくという善愛さんの姿勢とつながっています――崔昌華牧師が悲しみに突き動かされて動いたように。本書には善愛さんが小学校のPTA会長として「日の丸・君が代」問題に向き合った日々も書かれています。周囲の人との関係を丁寧に作りつつ、「どう思う?」と問い、ともに考えようと取り組む過程をぜひ読んでいただきたいです。 「この本が書店の音楽書の棚にあって、すごくうれしかったんです。この本を音楽好きの方、音楽に携わる方に読んでほしい。音楽が歴史や社会と切り離せないものであり、美しいピアノ曲の背後に祖国喪失の悲しみがあること。そしてこの国に今も暮らす在日たちも同じ悲しみを抱えて生きていると知ってほしい。そして音楽を奏でるように、自分の思いを社会に向かって奏でてほしいです。また在日や、在日問題を考えている方に、在日と同じ思いを持って作曲した音楽家たちがいることを知ってほしい、その音楽を聴いてほしいです」
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◆『日本と朝鮮』2009年2月1日 「国家」との格闘
大きな父の姿
『父とショパン』の著者、崔善愛さんは在日3世のピアニストで、長年にわたって人権をまもる活動をおこなってきました。
「94年亡くなった父、崔昌華が何に対して抗議しているのか、子どものころは分かりませんでした。いつも日本に向かって抗議しているのです。父の世代の人は心の中に押し殺した怒りがあるのです。父を理解できたのは家を離れてからです。」
「父は1930年朝鮮半島で生まれ、小学校のときに創始改名で日本の名前にされ、朝鮮語も奪われ、皇民化教育を受けています。父は54年朝鮮戦争から逃れて日本にきました。父は絶対に銃を持ちたくなかったと言っていました。」
「1945年解放された朝鮮半島では、日本の文化を拒絶し、自国の文化的アイデンティティを取り戻してゆきましたが、日本に強制連行された在日と父は、その民族性を奪われたまま取り戻すことができなかったわけです。結局自分は朝鮮人といいながらどこにその核があるのかということを悩むのです。」
ポーランドを追われたショパンの悲しみとが重なります。
崔昌華さんは、キリスト者として貧しい人々に寄り添い、在日の人権を守るために、30歳を超えてから二つの大学で法律を学び直し、実践的日常的に人権擁護運動の先頭に立った大きな人でした。
屈辱の恩赦を拒否
「81年21歳のとき、指紋押捺をいつの世代まで取られるのか、何とかしなければという、ただこの一点で押捺を拒否しました。検察庁に呼び出されて取調べを受けたあと、『罰金の略式でいいですね』と言われたのです。要するに私が罰金5千円を払えば、この件はなかったことにすると。私は罰金を払えば私が申し立てたことの意味がなくなると思いつつも、まさか裁判になると思いませんでしたが、被告になったのです。」
「ただ、自分の前に道が二つあるとき、より正しい方を選んだら、裁判になってしまったということです。裁判中、米国留学のために日本を出て再入国ができなくなりましたが、自分にとって納得できる道を選び、留学しました。」
「しかし本当に目覚めたのは、87年裁判が恩赦になった時です。屈辱的な恩赦より有罪の方がいいと恩赦を拒否しました。」
崔善愛さんは著書で『恩赦以前と恩赦以後、私の国家への思索はますますいやおうなく深まっていった』、『恩赦は裁判の打ち切りではなく、「天皇制」とは何かを考え始める、大きな扉を開くきっかけとなった』と述べています。崔善愛さんはその後、東京・町田市の小学校で君が代問題に取り組み、市の方針を後退させる力を発揮しました。
「何故私たちは指紋をとられるのか、私は朝鮮半島を支配しようとする心の欠片を見るから、それを拒否したわけです。」
2000年、外国人登録法の『指紋押捺制度』が廃止され、崔善愛さんは特別永住権を取り戻すことができました。背景には崔善愛さんの果敢な闘い、そして一万人以上の在日が指紋押捺拒否の闘いで制度反対に取り組んだことが政府を動かしたのです。
いま、崔善愛さんは精力的に演奏活動と講演活動をおこなっています。「人権問題と音楽活動が分かれていたのですが、一つのものとして活動をしていきたいと思うようになりました。」
崔善愛さんは著書のあとがきに書きました。『私のなかで社会に発言することと、演奏することはますます一つになろうとしています。ショパンのように』
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◆『クリスチャン新聞』2009年2月22日
祖国に戻れない父の苦しみをショパンに重ね
著者の崔善愛さんは在日韓国人3世のピアニスト。父・崔昌華牧師は、「私はサイショウカではない、チォェチャンホァだ」とNHKに抗議し、在日韓国朝鮮人の名前を原音表記するようメディアを動かした。指紋押捺制度が2000年に撤廃されたのも、この「ほえる」牧師の指紋拒否が起点。本書はその父の生きた軌跡をたどる。日本統治時代の朝鮮で生まれ、日本語を強要され日本名を押しつけられた。その体にしみ込んだ体験から、在日大韓教会の牧師になると命がけで「民族性回復」を訴え人権闘争に邁進。日本に同化しなければ生きていけず、蔑視され社会のどん底にある在日の人たちに聖書を語り、「しっかり勉強しなさい」と励ます。しかしどんなに勉強しても就職差別やいじめに苦しむ姿に壁を感じ、「やがて父の天上への祈りは、地上への闘いとなっていった」と娘は見る。
だが日本生まれの彼女は、そんな父を理解できずに苦しんだ。「父と暮らしていたころは、毎日のように父からつきつけられる日韓の醜い歴史を聞くのがつらく、自分を守り包んでくれる音楽の美しさに浸っていたい、と音楽に身を投じていた」。しかし被差別部落出身の友との出会いを機に指紋押捺を拒否し、「被告」となる。5年後、再入国許可がないまま米国に留学。特別永住資格を剥奪され、彼女も国の歴史との闘いを身に受けていく。
もう一つの主題ショパンは、その「亡命者のような」留学中に彼の手紙の言葉を知った。それを通してロシアの支配にあえぐ祖国ポーランドを離れ、異国フランスで生涯を閉じたこの音楽家について「ロマン派」「ピアノの詩人」という優雅なイメージが取り払われ、祖国に戻れない苦しみの中で激情し、怒りをピアノにたたきつける姿がうかびあがったという。そうして「音楽の調べもまた歴史社会から切り離されたものではなく、政治と戦争に翻弄され傷ついた音楽家たちの心の叫びであったことに気づかされていった」。それはまた、かつて理解できなかった亡き父の叫びに耳を傾けようとする、在日の世代間の調性の違いをつなぐ調べにも聞こえる。
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◆『朝鮮新報』2009年1月19日
国を奪われた者にこそ「愛国心」 文=朴 日粉
(前略)著者は、奪われた民族性を取り戻したい、と生涯、在日朝鮮人の権利獲得運動に身を捧げた崔昌華牧師の娘。その父の怒りや他国に侵略されたポーランドに残る家族のことを思いつつ異国で狂おしいほどの悲しみをピアノにぶつけたショパン、そして、異国の地でアウトサイダーとして生きた音楽家たちの人生に思いを馳せつつ、自らの人生を振り返った。
善愛さんは21歳で指紋押捺を拒否、23歳でそのために日本への再入国が不許可になった。日本の大学、大学院に通いつつ米国留学の道を探ったが、実際に日本を出国する再には、「再入国の不許可取り消し」の裁判を起こした。日本という国家に排除され、不条理な体験を強いられた善愛さんだったが、その後、音楽家としてさまざまな状況の中で生き抜く人びとに出会うことによって、「在日」という存在が決して特異なものではなく、世界中にいる普遍的な存在であることに気づいた、と述懐する。
この本のタイトルにもなったショパンも、「もう二度とこの国に戻って来られないような気がする」という言葉を残し、帝政ロシアの占領下にあった祖国・ポーランドから追われた。ショパン没後から100年、今度は第二次世界大戦下ナチスドイツによる徹底的な侵略を受け、ワルシャワの街は破壊され、「ポーランドの魂」とされたショパンの音楽は禁じられたという。
こうした歴史を紐解きながら、著者はショパンと朝鮮の詩人・尹東柱の受難を重ねて見る。パリで活動したショパンは民族の魂を異国の地で奏でることを許されたが、朝鮮語で詩を詠んだ尹東柱は、捕えられ、福岡刑務所で獄死した。
「ショパンと尹の二人の精神はわたしの中でつながっている」と書く著者。国を奪われた者にこそ愛国心という言葉は許されるのであって、「奪った側の人々が愛国心を合唱するとき侵略と戦争は推し進められていく」との指摘に共感する。
音楽、民族、歴史への窓を開いてくれる秀逸な一冊。
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