「日本の差別を考える Part2」
(2020年7月19日)

by はみだし系ライフの歩きかた & Super Smash Hoes Podcast


https://www.eventbrite.ca/e/part2reflections-on-discrimination-in-japan-part2-tickets-112308273068#
 

 上のリンクのZOOMイベントを視聴。
3名のパネリストの方々それぞれのお話がとても濃い内容で、
良いイベントでした。新たな気づきもありました。

以下、簡単ですが、パネリストの方の発言の要旨メモを勝手にまとめましたので、
シャアさせて頂きます。(文責:影書房)



パネリスト:

・UG(うぎ)さん
・長谷川トミーさん
・梁英聖さん

司会:ピアレスゆかりさん


*  *  *



司会: 質問。米国を発端としたブラック・ライブズ・マター(以下BLMと略)運動に関連して日本でも差別への関心が高まっているようだが実際はどうか? ご自身の体験をもとにシェアしていただきたい。

UG: 関心が高まっている側面とそうでないように見える側面があると思う。

日本政府はコロナ禍で学生支援緊急給付金制度を打ち出したが、この制度に国籍・民族差別があった。留学生への支給に成績による要件を課し、また外国につながる大学の中で朝鮮大学校だけが対象から除外された。この差別に反対する署名が短期間で5万以上集まった。日本でも差別への関心が高まっているのかなと思った。
(オンライン署名継続中)

私はジャズを歌っているが、日本のジャズ仲間でFB等でBLMに言及している人がほとんどいなかった。ジャズはアフリカン・アメリカンの文化に端を発する音楽で、BLMにジャズの魂もつながっているはずなのに。日本では政治に言及することを避けたがる空気、特に音楽や芸術の世界で政治に触れることを避ける空気があると思う。

トミー: 英国に住んでいた観点から。最近のBLMをうけて、自分の周り、特に海外に住んでいたことがある人とか留学生とかでは関心が高まっている印象。でもそういう人でも、それはやはりアメリカの問題で日本には人種差別はないと考えている人が多い。日米の違いは衝撃だった。そういう意味では日本と海外とくにアメリカとで状況が違うと感じる。

イギリスの現地校に通っていた時の経験。黒人の生徒に教師が「君は本当はどこから来たの?」と質問したことで、学校側は翌日か翌々日にその教員を人種差別的言動をしたということで解雇した。そういう状況をずっと見てきた。イギリスやアメリカのように差別にはすぐ反対するという状況と比べて、日本では今回改めて、差別があると分かっている人でも、差別に反対するところまでは至らないということを強く感じた。

梁: BLMが、日本の若い世代で差別に関心を持っている人や、日本の差別をなんとかしたいなと思っている人にとっては、肯定的な契機になるのではと思う。BLMは、差別は反対すべきもの、皆で立ち上がって抗議するべきものだということを教えてくれる歴史的事件のはず。自分が主催するNGOのイベントでも若い人がたくさん参加してくれるようになった。

BLM、つまり差別に反対することは正義で圧倒的に正しいんだということに、日本で生きているとなかなか気づけない。BLMがそれに気づく良いきっかけになっていると思う。

むしろ大学教員やジャーナリスト、社会運動家など、問題をある程度分かっている人たちの責任は非常に大きい。10代の若い人が日本の差別はやっぱりおかしい、怒っていいんだという潜在的な正義感を表現できるよう、差別を実際に止める方法や理論や知識を知識人の側がきちんと提供できるかが問われていると思っている。

司会: 次の質問。長谷川さんへ、なぜ「ハーフ」でなく「ダブル」という言葉を使っているのか。
UGさん、梁さんは「在日」と言われることにはどう思われるか。

トミー: 「ダブル」は、自分のルーツを大事にしてエンパワーしてくれる言葉。イギリスでも「ハーフ」と呼ばれることはある。「君ミックスルーツで、他にどこにルーツがあるの?」というような質問で。

英国で自分のアイデンティティを言うときも、「自分はこことこことにルーツがある」、英語で言えば例えば「ハーフ・イングリッシュ、ハーフ・ジャパニーズ」という感じで使う。

日本での「ハーフ」という言葉の使われ方には違和感がある。無意識的に「日本人か外国人か」という設定があるように思える。顔立ちが日系日本人で、日本国籍をもってて、というような日本人のイメージがあって、そこからはみ出す感じで「ハーフ」と言われる印象が強い。

UG: 私は「在日朝鮮人」という言葉を使っている。国籍にかかわらず、日本国籍を取得した人も含めて、「朝鮮半島にルーツを持つすべての人々」という意味を込めて。

日本では「在日韓国人」とか「在日韓国・朝鮮人」とか「在日コリアン」などの呼び方がある。

「在日韓国人」だと朝鮮半島ルーツの全ての人々という意味にはならない。

次に「韓国・朝鮮」という民族はなくあくまで「朝鮮民族」なので、「在日韓国・朝鮮人」という呼び方にも違和感がある。

「韓国」も「朝鮮」も英語にすれば「コリアン」なので「在日コリアン」という言葉が普及している側面がある。私もたまに使う。

日本では、日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代から今日まで長らく「朝鮮」という言葉が差別語としてと使われてきた/いる歴史がある。なので特に上の世代の日本人に多いが、「朝鮮」という言葉じたいを避けようとしたり、植民地支配やその後の米国・ソ連の占領、南北の分断という歴史の中で、韓国でも朝鮮という言葉を避けようとしてきた歴史がある。

歴史的に朝鮮という言葉が差別的に使われて来たし、避けられてもいる。日本人も含めて、「朝鮮人」という言葉に向き合っていくことじたいが、朝鮮半島、日本、そしてアジアの歴史に向き合うことにつながると思っているし、ひいては日本と朝鮮半島の関係改善や、在日朝鮮人への差別をなくすこととか、すべての在日外国人への差別をなくす道が始まると思っている。私は逃げずに「朝鮮」という言葉に向き合っていきたいと思っているので、「在日朝鮮人」という言葉を使っている。

梁: 呼称の問題は非常に難しい問題。自分は「在日朝鮮人」もしくは「在日コリアン」と言っている。理由はUGさんの説明と同じで、「コリア」「朝鮮」という呼称が適切だと考えているから。

でも「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」と自称する人を批判するということでは全くない。コリアにルーツを持つ日本のマイノリティとしては、「ダブル」「ハーフ」と呼ばれるミックスルーツの方も含めて、一つのマイノリティとしての同じ名前を持つことを妨害するような歴史的・社会的な力が働いているということ。それが差別ということです。

在日コリアンをどのような名前で呼んだらいいのかという問いを、差別をなくすという実践と切り離して考えること自体が「罠」なんです。

在日コリアンを一つの名前で呼ぶことを妨害する要因は3つある。

1つは朝鮮半島の分断。南北に国家が分かれていて朝鮮戦争で殺し合い、今も敵対しているという関係がある以上、在日コリアンは「どちらなのか」と自分たちでも分裂するし、他人たちからも分裂させられている。そういう状況が変わらない限り、1つのマイノリティとして名前を呼ぶことも妨害され続けるということ。

2つめは、日本での在日コリアンに対するレイシズム。日本での差別が在日を1つの名前で呼ぶことを妨げている。日本が南北の分断を使って差別をしてくる。あなたは「在日朝鮮人」なのか「在日韓国人」なのかで、扱いが違ってくる。

これは日本がかつて朝鮮を植民地支配した国だということがその理由。英語では北朝鮮・韓国、北・南とで「コリア」という言葉が分裂しているということがない。なので自分は「在日コリアン」と名乗ることで在日コリアン内部の分裂をある程度避けようと思って、あえて使っている。

3つめは、日本の政策で差別禁止法やマイノリティ政策がゼロということ。つまり日本の法律にも政策にも、在日コリアンの定義はいっさい存在しないということ。教科書にも、コラムにはあっても本文で位置づけられてるわけではない。例えばアメリカの教科書に黒人やネイティブアメリカンの歴史や存在が載っていないということはあり得ない。
日本政府が差別禁止法を制定して在日コリアンという存在を定義して、例えば、日々差別の統計をとるとか、在日コリアンへの反差別政策をとれば、政策上名前が存在しその名前を参照することによって、統一的な在日コリアンの名前を人口に膾炙させることは可能かもしれない。

この3つが在日コリアンを統一した名前で呼ぶことを妨害している。

この問題を初対面の日本人に説明するには三日かかる。なので、在日コリアンをどう呼んだらいいかよりも、その差別を一緒になくしていく実践を通じて、一緒に考えてもらう、悩んでもらうということを提案している。おそらく在日コリアンの正しい名前を考え付くよりも、差別に一緒に反対していく方がハードルは低いし、そういう社会になれば、それだけ在日コリアンを1つの名前で呼ぶことは簡単になっていくだろう。

司会: マイクロ・アグレッション=「意図しない差別」について。

トミー: マイクロ・アグレッション(以下MAと略)という言葉が日本で使われることには違和感がある。

MAが英国で使われていた文脈は日本とは全然違う。MAは日常的な偏見やステレオタイプからくるものだが、英国などでは差別が禁止されていることが大前提にある上での、それでもなくせない偏見やステレオタイプのこと。欧米では絶対許されない差別、「国に帰った方がいい」みたいなことを友だちに言えばみんなが反対するが、日本ではそれが偏見やステレオタイプによるものと扱われる。そこで「MA」という言葉でそれを表わしてしまうと、差別に反対できなくなる。MAによるものであって偏見・ステレオタイプからくるものだから主張がないとなって。

欧米では普通に反対されることが、日本でのMAというフレーミングの下では反対されないのではと感じる。

なので、MAという概念自体をあまり使いたくない。日本では、欧米では許されない外国人入居差別のような差別が存在するにもかかわらず、欧米での「(MAのような)なくせない偏見」の話を持ち出すことには違和感を感じる。

まずは欧米では普通の、差別を見かけたら「やめて、STOP!」ということをみんなにやってほしいと思う。

梁: いまのトミーさんの話に完全に同意します。正直、日本でMAをいえば腐るほどある。これはもうまずいでしょっていう差別が素通りされてしまうので、それよりも微妙なものはいくらでもある。逆にもっとひどいことを何とかしてほしい、という感じがする。MA以前に「差別を何とかしろよ」というのがある。

ARICのガイドブック4頁に「差別と区別に区別をつける」のがグローバルスタンダードの人権だという話が書いてある。そこに5段階の差別のピラミッドがあるが、「ここから上はダメ」という線を引くのが差別禁止法の考え方。「差別と区別に区別をつける」ことをまずしないと、MAはそれがないと絶対に防げない。

日本のMAを問題にするとなると、例えば吉本のお笑いはほとんどダメ。日本の笑いは人の属性を上げつらって笑いを取っているだけ。大坂なおみさんが薬局で日焼け止めを…みたいな、絶対に許されない差別が平気で出るということは、むしろお笑いがMAになっていて、人の性や人種や見た目とかをネタにしていじるMAじたいが面白いんだ、という話になっている。つまり「差別と区別」に区別がついていない。グループに対する不平等は区別じゃなくて差別だというラインがあれば、日本のMAはかなり防げる。

UG: トミーさん、梁さんに100%同意します。

先ほど朝鮮大学校への差別について話したが、日本にいる在日朝鮮人の子どもたちが通う朝鮮学校が60以上あるのだが、今回の朝鮮大学校に限らず朝鮮学校への差別は今に始まったことではない。日本政府は高校無償化制度から全国に10ある朝鮮高校の生徒だけを除外している。その理由は「拉致問題の解決に進展がないから」という。

これは人種差別撤廃条約ほかの色んな人権条約に違反している、差別だということで、ここ10年レポートが出されてきた。人種差別撤廃条約委員会含め各種人権条約委員会が、日本政府の主張も聞いた上で、結果としてこれは差別であると、政治的な外交的問題と子どもたちの教育を平等に受ける権利を結び付けてはいけない、それは子どもたちの教育を受ける権利を阻害している、なおかつ人種差別である、平等に制度を適用せよ、という勧告がこれまで計5回出ている。にもかかわらず日本政府は差別ではない、つまり区別だと主張している。

こういう問題がヤフーニュースとかに出ると、必ず「これは差別じゃなく区別だ」、「イヤなら国にお帰り下さい」などのコメントがたくさんつく。一般の人が差別とは何かがわからないのは、日本政府自身が反差別規範を意図的に無視していることの現れだと思う。なので、差別に反対する規範をきちんと学ぶ、ルールをつくる、法律をつくることが先決だと思う。

司会: 最後にまとめということで、お一人ずつ。

トミー: 僕は昨年の11月に「Moving Beyond Hate」という学生団体をつくった。いま2年生だが、大学に入った時に大学内に差別に反対する団体がなくて、同時に学生のなかにも差別に反対する動きが無かったので、若い世代でつくりたいなと思って、団体をつくった。常にメンバー募集中。

イギリスでは差別に反対することが当然。BLMでやはり差別はおかしいねという人も増えてきていているので、その動きを生かして、若い世代が集まって意見交換しながら、日本の差別をどうなくしていくのかを考えていければと思う。

梁: トミーさんが言ってたことはとても重要で、学生に限らず10代20代の若い世代が日本の差別とどう闘うか、どういう社会をつくっていくかは非常に重要。BLMから学んで連帯しなければならないと思う。

BLMは長い歴史があった。公民権運動の歴史だけでなく、最近10年の若い世代のオルタナティブな運動があった。若い世代も上の世代の社会運動を批判して新しいものをつくっていいんだし、それが正しいんだということ。BLMの現場の活動家が、上の世代の公民権運動の伝説的な活動家とか、オバマ政権に近いような活動家と激しく対立して批判しながら、新しいものをつくっていった。

日本の社会運動は年功序列というか、年上に気をつかいながら運動するというのがあるが、それはどうでもいいこと。むしろ日本で差別がなくならなかったということは、日本の反差別運動にも大きな問題があったということはまちがいない。

おかしいことはおかしいとちゃんと言う、正直に生きる、アクションを起こしながら生きるということは素晴らしいことだし、当たり前なこと、現実的なこと。

差別に反対せずに日本で生きると、加害者になるか被害者になるかのどちらかで、自分の心身が壊れてしまう。
日本では差別に反対することが特別で、逆が当たり前となっているが、その生き方はもう通用しない。人権侵害をしてくる企業とか、極右とかから身を守って、友だちも守れるような社会をつくらないと生きていくことはできない。

僕は日本からはみ出る生き方を推奨している。外国、BLMでもいいが、他国から入ってくる情報や文化とつながりながら人間性を保つという生きかたが現実的だと思う。

UG: 差別に反対している人たちとぜひ出会ってほしい。朝鮮高校の生徒たちが日本政府・文科省相手に裁判までして、九州や広島で今も闘っている。生徒や卒業生の学生たちが、2013年から毎週金曜の午後4~5時まで文科省前で「金曜行動」を行っている。文科省の人はビルから出てこないし、通行人もリーフレットをもらってくれないけれど、一緒に参加してくれる日本人も少しずつ増えてきている。一緒に声を上げてくれればお互いにエンパワーメントになると思う。

もう一点。昨年の10月から幼児教育・保育無償化制度が始まったが、ここからもほとんどの外国人学校の幼稚園が除外されている。「多種多様な教育が行われているから」というのが日本政府の理由。日本で今行われていることは、政府レベルで多様性を否定するということ。外国につながる、朝鮮につながるというだけで、学ぶ権利など基本的人権の保障がなされないということが日常的になされている。朝鮮学校に通う子どもたちは、3歳になったときから親と一緒に集会などに参加して闘わざるを得ないような生活を強いられている。こちらの署名もぜひご協力を。

(以上)

※なおこのイベントの録画は、後日youtubeにアップされると最後に司会の方がおっしゃっていました。