【碑文】
○田川地区炭鉱殉難者慰霊の碑 (1989年)
昔、燃える石と言って重宝がられた石炭は、明治維新による西洋文化の導入と、産業の近代化に伴い、筑豊は我が国最大のエネルギー源となった。富国強兵の国策は不幸にして、日清日露の戦役となり、満州、支那事変と止まるところを知らず、遂に、世界を二分する太平洋戦争に突入、爾来四年、人類史上計り知れない惨禍と犠牲をもたらし、昭和二十年八月一五日終戦を迎えたのである。
失意と絶望と廃墟の中に起ち上がった我が国は、驚くべき努力と英智によって、ここに世界の経済大国として再び奇蹟の復興を遂げたのである。戦争中には徴用や各国捕虜等、老若男女を問わず石炭増産に狂奔し、また戦後は祖国復興の為、大小300余の炭坑、中小無数の採掘の活況は実に壮観であった。然し一方、瓦斯爆発、落盤、出水、坑内火災等の被害も又甚大で殉職者は推定2万人とも言われている。やがてエネルギー革命により、百年にわたる炭坑の灯は消え栄枯の歴史の幕は閉ざされた。
今日、吾が郷土の発展の陰には、貴いこれら炭坑殉職者のいることを決して忘れてはならない。茲(ここ)に奇しくも地域住民、諸団体等の賛同のもとに、此の碑を建立し、諸霊のご冥福を祈り感謝の誠を捧げるとともに、末永く筑豊炭田の歴史を伝えんとするものである。
○韓国人徴用犠牲者慰霊碑 田川市石炭記念公園内 (1988年)
この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでもない。
思えば、大韓帝国末期、日本は「日韓併合」の美名のもとに人道に悖(もと)る政策を断行した。特に第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐(むび)にも忘れぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう。いつになったら晴れるであろうか。
歳月は無情にも溢れ、はや四十有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの標(しるし)とするものである。
冥界(めいかい)の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。
○強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑 (2002年)
建立にあたって
かつて一五年戦争の末期(一九四三年〜一九四五年)日本政府は国内の労働力不足を解消し、戦時下の生産力を維持するため、当時侵攻していた中国大陸での中国軍俘虜および行政供出によって中国人三八九三五名を日本国内に強制連行した(内六八三〇名死亡)と記録されている。
その中で、三井鉱山田川第二・第三坑に六六八名が送り込まれ、終戦まで石炭生産に従事させられたのである。その間、六名が作業現場で災害に△△殉職、二一名は病死(内三名獄死)で不帰の人となった。これら殉職者の冥福を心から祈るものである。歴史を鑑に恒久平和を願って・・・。
○朝鮮人炭鉱殉職者之碑 法光寺内 (1975年)
1910年、日本は朝鮮半島を統制下に治め、以後1945年の敗戦まで植民地として支配を続けました。特に1931年から日本が行なった15年戦争のために国内の労働力が不足し、この筑豊においても石炭採掘の労働力として約15万人の朝鮮人が強制的に連行されてきました。以後1945年までの強制労働と劣悪な環境の中で約2万人が坑内事故や病気で亡くなられました。
この殉難碑には、このような過酷な歴史を生き、祖国の山河や親族に再び会うこともできずに無念のおもいで亡くなっていかれた朝鮮人の遺骨が安置されています。ここに集う者、皆共に歴史の事実を心に刻みたいものです。
「寂光」は、お経に「常寂光土」− 常にやすらかな光に満ちた世界 − いわゆるお浄土のすがたをあらわした言葉です。
1975年、法光寺鉱害復旧に際して殉難碑建立以来、絶え間なく各地からの参拝者があることを鑑み、ここに改築して永代の供養に付し、あわせて日朝・日韓の親善と国際社会の平和を希うものです。
1997年3月 再建
○無窮花堂 (2000年)
先の戦争において日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました。
ここ筑豊には15万人にも上る朝鮮人が炭鉱で過酷な労働を強いられ、多くの人々が犠牲となりました。筑豊の発展と日本の近代化は、まさに朝鮮人をはじめとする外国人労働者の血と、汗と、涙なしでは語れません。
日本の敗戦により、朝鮮半島が植民地支配から解放され、半世紀以上が経過しました。しかし、いまなお筑豊の各地には多くの遺骨が放置されたままになっています。
「こうした遺骨を収集し、納骨堂を建立して追悼しよう」という呼びかけに共感した人びとの浄財ならびに各自治体の協力によって、納骨式追悼堂を建立する事ができました。
21世紀を迎えるにあたり、歴史的事実をあらためて認識し、不幸な過ちを二度と繰り返さない決意をこめてこの追悼堂と国際交流広場を日本とコリア両民族はもとより、すべての人類が恒久平和を希求する発信地として意義あらしめ、世代をこえて守っていくことを願ってやみません。
○炭鉱犠牲者 復権の塔 (1982年)
過去100余年、日本の産業経済は石炭によって支えられ今日の繁栄の土台を築きあげてきた。
最盛期には300坑もあった筑豊の炭鉱もいまはすべて終閉山し、産炭地としての筑豊は永久に忘れ去られようとしている。
かって炭鉱労働者として石炭産業に従事された多くの人々がその犠牲者となり、また戦時にあっては外国の人々の犠牲者も多数にのぼっており、過去の『人間疎外』に対して『人間性の回復』への願いと、諸外国犠牲者に対するお詫びの意味をこめて、『炭鉱犠牲者復権の塔』が千石公園に建設された。
宮田町観光協会
【各碑の建立経緯などについて】
○田川市石炭資料館
休館日のため見学できず。三井田川伊田坑の跡地にある。
大企業が経営していた炭鉱のためか、炭坑夫・婦の像は、制服を着用し、頭にはヘッドライト付きの帽子をかぶる近代的なスタイルのもの。犬飼牧師によると、大規模炭鉱では、戦中でもこのような近代的なスタイルだったが、中小の炭鉱では、山本作兵衛氏の絵にあるようなカンテラを手に、薄い下着のようなもの一枚のといった服装がほとんどで、炭鉱の規模によって違いがあるという。
犬飼牧師によれば、ここは三井が作った資料館でかなり大きなものだが、朝鮮人に関する記述は一切ない。
○韓国人徴用犠牲者慰霊碑 田川市石炭記念公園内
資料館の横には、煙突が残され、炭住が再現されている。それらがある敷地から外れたところに韓国人徴用犠牲者慰霊碑がある。
この碑は在日韓国民団田川支部と韓国人徴用犠牲者慰霊碑建立委員会によって1988年4月に建てられた。
犬飼牧師はここで、平良修牧師の文章を朗読し、「慰霊」について話された。遺族を慰めることと、事実を示す役割。日付、死者の名前、数、など、誰がどうしてここに奉られることになったのかが分かるような情報、歴史の掘り起こしが不可欠。
○田川地区炭鉱殉難者慰霊の碑
韓国人徴用犠牲者慰霊碑の近くには、田川地区炭鉱殉難者慰霊の碑がある。1989年に建てられた。
○強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑
また、上の碑の隣には、三井田川炭鉱へと連行され死亡した中国人を追悼する碑がある。日中友好協会田川支部が2002年4月建立。強制連行・強制労働を強いられた中国人17名の名が刻まれている。
○朝鮮人炭鉱殉職者之碑 法光寺内
1975年1月建立。当時、わが同胞の遺骨を国へ持ち帰りたいとする朝鮮総連と、田川で死んだのだからその地に慰霊碑を建ててほしいとする大韓民国居留団との確執があったが、法光寺住職が仲を取り持ちここに慰霊碑を建立し供養していくことで決着した。
○豊州炭鉱二尺坑の排気坑口
国道322号線の三ケ瀬信号交差点から少し西へ入った所にある神社の付近の民家の脇にある。石炭搬出用の本坑口から送り込まれた風が坑内を通り、汚れた空気をここから吹き出すのに使われていた。1988年9月、民家の鉱害復旧工事の際、28年ぶりに完全な形のまま姿を現したのが保存されている。
○日向墓地
雑木林の中にある日本人墓地の中。不自然に石が置いてある。これが炭鉱で亡くなった朝鮮人の墓石だと言われている。墓石には名前も死亡日も記載されていない。ここは古川大峰炭鉱のボタ山だったところ。1944年古川大峰炭鉱では、朝鮮人鉱夫がリンチによって殺害される事件があった。
犬飼牧師はここで、『写真万葉録筑豊・アリラン峠』より「ノレカラの歌―オモニあいたい」を朗読。
しかし、これらの石は朝鮮人の墓石ではない、という説もある。崔昌華牧師は、この墓地を買い取って発掘調査をしようと提案していた。
○無窮花堂
在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会(「来善代表)によって、無縁とされる朝鮮人の遺骨の納骨が納められた納骨堂。2000年11月建立。「来善さんは自身、1943年に川南工業浦之崎造船所へと連行されてきた。納骨堂の周りに、歴史回廊と名づけられた、強制連行の史実を示した壁も建っている。
○炭鉱犠牲者 復権の塔
服部団次郎牧師が中心となって1982年に建立。塔の上の炭坑夫・婦像は、明治以降に着用されていた肌着のようなものを着て、男性はカンテラとツルハシを持っている。
(文責・吉田)
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